自分の心は自分でなんとかするしかない
自分がこれから、どのように生きてけばいいのか、どのように生きられるのか、それがわからない。自分の未来が見えない。それが夫の怒りの原因の一端をなしている。
自分の未来が見えなくて不安になることは、決して認知症の人に限ったことではない。
全く予想もつかないことがその身に及んだとき、多かれ少なかれ誰でも恐怖を感じるのではないだろうか。
けれども未来は、恐怖があろうが、希望がなかろうが、待ったなしでやってくる。
私は、夫が恐怖を振り払い生きる希望がもてる未来、を用意しようとがんばった。
夫が日々穏やかでいられるよう心を配り、なにかのきっかけで夫の機嫌が悪くなりはしないかと気を揉み、夫が弱音を吐けば私がついているからと励まし、夫の顔色をうかがいながら四六時中夫のそばにいた。その結果、私は疲れはて、このままいけば自分が壊れてしまうと気づいた。
介護の本などには、認知症の人に寄り添い穏やかに過ごせるよう対応しましょう、と書かれているが、その考えにがんじがらめになると介護者は壊れる。
そもそも、認知症になったら穏やかさの中だけで生きさせようとする考えは間違っている。
喜怒哀楽、すべて含んで人生だ。
私は、意識的に、自分と夫の間に線を引くようにした。今まで私は、夫の人生に踏み込みすぎていたのだ。
そんなある日、夫とケンカした。原因は、夫がお腹が痛くて困っているのに、私が以前と比べてあまり構わなかったので、それを冷たいと感じた夫が怒りだしたのだ。
夫の腹痛は珍しいことではなかった。腹痛の度に夫は私に心配して寄り添うことを望んだが、私は度々のことで構うのがめんどくさくなっていた。心配しても治るわけではない腹痛を心配することに疲れたのだ。冷たいと思われるかもしれないが、夫の腹痛はいつも時間が経てば治った。けれども、夫に忖度し続けることで私が精神を病んだら、それは簡単には治らない。
ケンカの最中、夫の腹痛が消える。夫の腹痛の原因は精神的不安によるものかもしれない。
夫のわがままに辟易して家を出て行こうとする私を夫が呼び戻す。
「困ったり痛いことがあったら、いっこ(私)がなんとかしてくれると思ってた」夫が言う。
確かに以前の私の対応には、そんな感じのところがあった。私は夫を精神的に甘やかしすぎていたのだ。
「私もそう思ってた。でも、私にはどうしようもできないの。自分のことは、自分でなんとかするしかないの」私が返す。
自分の痛みは、自分で我慢するしかない。私には痛みを消すことも痛みを代わることもできない。むしろ私が甘やかしすぎたせいで、夫は自分ひとりでお腹の痛みを我慢できなくなっていたのではないか。
「どうして何もしてくれないんだって思ったけど、そういうことなのかな、って思った」夫は私の変化に気づいている。
私が夫の不安の肩代わりすることはできない。
私が夫の人生を背負おうこともできない。
私はできないことをしようとしていた。
私ができることは、夫が自分で自分の人生を最後まで生きられるように見守ること。
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