イケヤいくこ

自分の心と頭の整理とストレスを逃すために、書きたいことを書くノート。 私、1982年生…

イケヤいくこ

自分の心と頭の整理とストレスを逃すために、書きたいことを書くノート。 私、1982年生まれ、元不登校(未克服)、無職 夫、1947年生まれ、認知症 年齢差2倍の年の節分の日入籍

最近の記事

がんばりすぎるなと言うのなら、がんばりすぎないでいい方法を教えてほしい

    • 嫌な気分を引きずった私に、夫が戯れついてくる。構ってほしいのだろうが、私はひとりにしてほしい。私は、自分の機嫌を自分でとらなければならないのだから、ひとりにしてほしい。

      • 私のことを嫌な気分にさせた張本人が、私のことを嫌な気分にさせた原因を忘れる。私は嫌な気分のままなのに。そんなこと言っていないと夫は言う。忘れた夫にとって、それが真実だ。私を嫌な気分にした原因が消えてなくる。なにを相手に腹を立てているのだろう。虚しい。どうこの感情を処理すればいい。

        • 放浪 四

          その日は疲れていたので、早く寝ようと思っていた。 もう少ししたら寝ようか、そんな時間に「帰るよ」と夫が言い出した。 夕食後、居間でくつろいでいたら「帰るから車で送って」と夫に言われ、ふたりで小一時間ドライブして帰ってきたのが、その1時間ほど前のこと。 デイサービスが休みで、一日中、夫とふたりきりだった私は、この日2度目の「帰るよ」にガックリきたのと同時に腹が立ち、さらに疲れが怒りを増幅させた。 「なら帰ろう」と怒りの声で私は夫を家から出した。「今日はもう遅いから明日に

        がんばりすぎるなと言うのなら、がんばりすぎないでいい方法を教えてほしい

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          放浪 三

          街中をひとりさまよい歩きながら夫は怒りを鎮めていく。後ろを歩く私の存在に気づいた夫が「一緒に来てほしい」と私に頼む。 「ひとりで帰れる」と怒って家を出ていった夫が私の手をとる。 「もう、なにもできない。なにもわからない」と夫が老いていく自分を嘆く。 夫の嘆きの厄介なところは「人の世話にはならない、寂しくてもひとりで生きる」という考えにつながるところである。そこには、夫のプライドや孤独や絶望などが入り混じっている。けれども、その考えは私には看過できない。夫の死、そして私が夫

          自分の心は自分でなんとかするしかない

          自分がこれから、どのように生きてけばいいのか、どのように生きられるのか、それがわからない。自分の未来が見えない。それが夫の怒りの原因の一端をなしている。 自分の未来が見えなくて不安になることは、決して認知症の人に限ったことではない。 全く予想もつかないことがその身に及んだとき、多かれ少なかれ誰でも恐怖を感じるのではないだろうか。 けれども未来は、恐怖があろうが、希望がなかろうが、待ったなしでやってくる。 私は、夫が恐怖を振り払い生きる希望がもてる未来、を用意しようとが

          自分の心は自分でなんとかするしかない

          殴られて、蹴られて、体にできる傷は治るからまあいい。ただ夫への心が離れていく。そのことが自分でどうしようもできなくて困っている。夫がどんなに謝っても、私は夫が許せない。

          殴られて、蹴られて、体にできる傷は治るからまあいい。ただ夫への心が離れていく。そのことが自分でどうしようもできなくて困っている。夫がどんなに謝っても、私は夫が許せない。

          暴力がある状態はよくないと思うと言われた。確かに私は、私に対する夫の暴力を容認している。けれども、だからといって放置していてよいとも思ってない。ただ、どうすればいいのかわからない。批判するなら、どうすればいいのか教えてほしい。

          暴力がある状態はよくないと思うと言われた。確かに私は、私に対する夫の暴力を容認している。けれども、だからといって放置していてよいとも思ってない。ただ、どうすればいいのかわからない。批判するなら、どうすればいいのか教えてほしい。

          放浪 ニ

          世間では、認知症の人のいわゆる「徘徊」について、傍から見て理由はわからなくても本人は目的を持って歩いているのだから「徘徊」というのは失礼だ、これからは「ひとり歩き」と言い換えよう、という動きがあるようだが、うちの場合「ひとり歩き」では、なんだかしっくりこない。 夫をひとりで歩かせたら行方不明になるかもしれない危険を私が感じてからは心配で、夫ひとりで外を歩かせたことはないからだ。 夫が怒って自ら家を出ていくときも、私が夫ひとりで出ていくようしむけたときも、夫の安全は守れるが

          本当に殴りたい相手

          「こんちくしょう」と言いながら夫が私を平手で殴る。私は殴られながら、夫が本当に殴りたい相手「こんちくしょう」と罵りたい相手は、自分自身なのではないかと思った。 私は、夫の暴力を夫の言葉の一部だと思っている。今までできたことができなくなって、覚えていたことが思い出せなくなって、自分1人で答えがだせなくなって、そんな自分への言葉にできない苛立ちが暴力となって私にぶつけられる。ならば、それを受け止めるのが私の愛情だ。 私は逃げたくない。「殴るぞ」と手を上げられたら「殴りたければ

          本当に殴りたい相手

          殴られるほうが痛みを伴うぶんわかりやすくていい。漠然とした不安を「わからない」という言葉でぶつけられると、こちらもどうしたらいいのかわからなくて疲れる。

          殴られるほうが痛みを伴うぶんわかりやすくていい。漠然とした不安を「わからない」という言葉でぶつけられると、こちらもどうしたらいいのかわからなくて疲れる。

          寄り添いすぎると自分がつぶれる

          寄り添いすぎると自分がつぶれる

          認知症介護のネット記事のコメント欄には、たいていでてくる尊厳死や安楽死。自分が認知症になってしまったら死んでしまいたいと。それは私には、老いから目を背ける行為にしか見えない。私の認知症の夫は、今、自分の老いとしっかり向き合っている。どこに出しても恥ずかしくない。私の自慢の夫。

          認知症介護のネット記事のコメント欄には、たいていでてくる尊厳死や安楽死。自分が認知症になってしまったら死んでしまいたいと。それは私には、老いから目を背ける行為にしか見えない。私の認知症の夫は、今、自分の老いとしっかり向き合っている。どこに出しても恥ずかしくない。私の自慢の夫。

          私の気を長くしてくれた言葉

          たいていの認知症の人がするであろう、周りの人をとてつもなくイラつかせる行動。 短時間に同じことを何度も聞く。 人によって執着することが違うので、繰り返す質問は違うだろし、聞く方も何度繰り返されてもわりと平気な質問もあるだろう。私の場合は、曜日とか時間とか、変更不可な事実については、何度聞かれてもイラつかずに答えられる。ただし、ここにご飯の時間が絡んでくると、そうもいかないが。(3時に夕ご飯は出ません!) 夫の質問の中で1番私をイラつかせるのが、 「今日(明日)、どこ行く

          私の気を長くしてくれた言葉

          夫は焦っている。私に答えを求める。

          「僕はどうしたらいいの」 そんなこと、私にわかるはずがない。 夫は認知症でいろいろなことがわからない。 夫が私に問う「どうしたらいいの」は、自分の人生の身の振り方を私に聞いているのだ。 そんなこと、私にはわからないし、もしわかったとしても、私が教えるべきことではない。 認知症であったとしても、自分の人生は自分で見つけないといけない。 夫もそれはよくわかっているようだ。 ただ、今の自分でいることが不安でたまらないから、早く答えを欲しがっている。 夫の「どうしたらいい

          夫は焦っている。私に答えを求める。

          世間の人がさす「認知症の人」は、どんな人なんかな?

          「たとえ認知症の人でも、人の優しさ、温かさ、冷たさ、邪険にされる行為、そういうことの判断は出来るそうです。」Yahoo!ニュースのコメントの一部です。 私はYahoo!ニュースのコメントを読むのが好きです。 私が興味を持つ記事のジャンルはいろいろですが、認知症関連はやはり気になるのでよく読みます。 だから、必然的に認知症関連の記事のコメントを読むことが多いです。 その中で、世間の人は認知症の人に対して、いったいどういう捉え方をしているのかなと興味がわくことがあります。 冒

          世間の人がさす「認知症の人」は、どんな人なんかな?