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本当に殴りたい相手

「こんちくしょう」と言いながら夫が私を平手で殴る。私は殴られながら、夫が本当に殴りたい相手「こんちくしょう」と罵りたい相手は、自分自身なのではないかと思った。

私は、夫の暴力を夫の言葉の一部だと思っている。今までできたことができなくなって、覚えていたことが思い出せなくなって、自分1人で答えがだせなくなって、そんな自分への言葉にできない苛立ちが暴力となって私にぶつけられる。ならば、それを受け止めるのが私の愛情だ。

私は逃げたくない。「殴るぞ」と手を上げられたら「殴りたければ殴れ。殴ってもなにもかわらない」と言い、「殺すぞ」とすごまれたら「殺すなら殺せ。私を殺して1人で生きてけ」と言う。

私は、私の両親を精神的な支えとして信用していない。親は子どもの成長のもがきから発せられる怒りを真摯に受け止めてやらなければならないときがある。私の両親は私たち子どもの怒りから逃げた。私はあの人たちのようにはなりたくない。私はぜったいに逃げない。私は親の責任を果たす。夫の老いのもがきを私が支える。

そうはいっても大ケガしそうだと思ったら逃げるだろうが、興奮して痛みに鈍感になっているからか、夫が手加減しているからか、今までそこまでの痛さを感じたことはないし、手当が必要なケガを私はしたことがない。
夫は歳なので毛細血管が弱くなっており、ケンカの後はたいてい腕のどこかが皮下出血している。皮膚も弱くなっているので、たまに引っ掻いて出血していることがあり、そのときは絆創膏を貼るのだが、手当てをする私に夫が「ありがとう」と言う。夫はケンカしたことをすっかり忘れて、純粋に、手当てをしてくれて心配してくれてありがとう、と言うのである。私のせいでケガをしたのに。返す言葉がでてこない。


これまでの夫とのケンカの中で、私が1番痛かったのは、夫が言うことを聞いてくれないことに腹が立ち、夫めがけて渾身の一撃を繰り出したら、普段しない動きをしたからか、夫に当たった瞬間、腕を変な方に捻ってしまったときである。その後3日間ぐらい右上腕が痛かった。私は自分からは手を出さないし、反撃することは多くないが、するとなると割と本気で殴る。そこに至るまでに、私はかなりの我慢をしているのだ。

私に苛立ちをぶつけながら私と自分自身と闘った夫が、我に返る。私に根負けしたのだ。夫も精一杯闘ったのだから夫が負けたわけではない。私は夫のためにも根負けしてはいけない。
夫が私に「ごめんなさい」と謝る。女性に手を出す最低な行為をしたと深々と頭を下げる。何度も謝るその姿は、暴力の後泣いて謝るDV夫のようだが、DV夫と違うのは、そんなことをした自分は私の元から去らねばならない、と考えるところだ。だがその考えは、私によって却下される。夫が私の元から去ることを私が許さない。

私と夫のこの関係に病的な共依存を感じる人もいるかもしれないが、それは否定しない。私も、夫婦としては、いささか奇妙な関係だと思う。

でもこれが、私たち夫婦のやり方である。

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