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東野圭吾の小説は、なぜこうも読みやすいのか

先日、近所に新しく紀伊国屋書店ができたと知り、フラっと徘徊しに行った。特に目的の本はなかったのだが、入り口の新書コーナーで「ある一冊」が目に留まった。

東野圭吾の『クスノキの番人』である。

東野圭吾はもとより大好きな作家なので、彼の新作ともなれば買わない理由がない。本を手に取るや否や、即レジに向かい購入した。

家に帰りさっそく読んでみると、言わずもがな安定の面白さ。

SF要素の混じった感動物語なのだが、改めて東野圭吾はミステリーだけでなく、いかなるジャンルにおいてもハズレのない作家だと感じた。

読み終えてふと、あることに気がつく。読了までにかかった時間が、3時間ほどなのだ。『クスノキの番人』の前に読んでいた別の小説は、たったの50ページを読むのに同じくらいの時間がかかった気がするが…。

思い返してみると、これまでに読んだ小説の中でも、東野圭吾の作品は驚くほどスラスラと読める。対して他の作家が書いた小説は、やたらと時間がかかる上に結局最後まで物語にのめり込むことができず、途中断念することもしばしば。

東野圭吾の作品は、他の作家のそれと比べて、なぜこうも読みやすいのか?

少し考えた結果、いくつかの理由が見えてきた。今回は、彼の文章が秘める「読ませる力」を、備忘録がてら以下に記していこうと思う。



文字を映像化したときの“解像度”がヤバイ

小説を読むとき、「文章から得た情報を映像化する」という作業はほとんどの人が(無意識的に)やると思う。物語の舞台となる街の風景や登場人物の顔など、具体的にイメージができないとストーリーそのものに没入することが難しいからだ。逆に言えば、映像(映画、ドラマ)作品を先に見て、そのあとに原作を本で読むと、イメージすべき画がすでに確立されているので話がスムーズに入ってくる。だから、読みやすい本とは「文字⇒映像」の変換をいかにラクにできるかで決まるのだ。

東野圭吾が書く文章は、この「文字⇒映像」の変換をしたときの解像度が半端じゃない。

最たる例は、登場人物の外見的特徴を説明するときだ。

現れたのは、女性だった。年齢は六十歳より、もう少し上だろうか。背は、この年代にしては高いほうかもしれない。白いブラウスの上にグレーの上着を羽織っていた。ショートカットにした髪は栗色だ。どこかで会ったことがあるような気がしたが、思い出せなかった。やや吊り上がり気味の目で、じっと玲斗の顔を見据えてきた。何とも言えぬ威圧感があり、玲斗は後ずさりしそうになった。「入りなさい」女性は、ややハスキーな声でいった。口調が柔らかかったことと、かすかに口元が緩んでいるように見えたことが、ほんの少しだけ玲斗を安心させた。(『クスノキの番人』, P.22, 6~11行目)

単に顔だけでなく、身長、髪の色、声質、またシーンによっては指の長さや皺の入りかたなど、その人物画をかなり細かい部分まで書き表している。

この細密な形容によって、我々読み手は「この人物、有名人に例えると○○だ」と、脳内で“知っている誰か”に置き換えてイメージすることができる。そして、そのイメージが定着すればするほど読書は捗り、より充実したものになるのだ。


とはいえ、「そのくらいなら他の作家もやってない?」と思う人もいるだろう。確かに、他の作家もこのくらいのことはやっている。だが、東野圭吾の場合はおそらくその頻度とレベルが違う。

その証拠として、彼は国内の小説家の中でも、作品の「映画化」「ドラマ化」の数が桁違いに多い。映画に関して言えば、2018年~現在までの期間で実写化された作品は5本に上る(『祈りの幕が下りる時』、『ラプラスの魔女』、『人魚の眠る家』、『マスカレードホテル』、『パラレルワールド・ラブストーリー』)。

補足として、原作をもとにした映画がどのようにできるかと言うと、まず映画監督が小説を読んで「自分の手で実写化したい!」と思うところから始まる。そして、自身の熱意と映像制作者としての強みを、作家へアピール(所謂プレゼン)しに行くのだ。「私ならあなたの作品を最高の映画にできますよ」と。

つまり実写化というのは、そもそも小説自体に「映画監督を動機付けする力」がないと実現しない。そして動機付けに重要なのが、「物語としての面白さ」と、「実際に映像化のイメージがつくかどうか」である。

そこで、先述の通り「文字⇒映像」の変換技術に優れた作家が有利になる。「映像化されている作品が多い」ということは、それだけ読者にとってイメージしやすく脳内で映像がスラスラと再生できるような書き方を作家が徹底している、ということなのだ。

この最たる例こそ、東野圭吾だと僕は思っている。



感情を“肉体の動き”で表現する

登場人物の心情を描くときの表現にも、他の作家にないこだわりが見て取れる。

例えば、

「驚いた」

「感心した」

「やる気がない」


東野圭吾はこれらの心情を書き表すとき、

「両方の眉を上げ、目を見開いた」

「口元を緩め、意味ありげに細めた目を向けた」

「ポケットに両手を突っ込み、身体を左右に揺らすように歩いている」

と、必ず肉体の動きを用いているのだ。


ほとんどの人は気にも留めない部分だろうが、この細かな表現の徹底ぶりにこそ、彼の小説家としての真髄が見える。

もちろん、我々は「驚いた」「やる気がない」と言われれば、どんな状態なのか理解することはできるだろう。ただ、「驚いた」は「驚いた状態」でしかないし、「やる気がない」は「やる気がない状態」でしかない。どういうことかと言うと、同じ種類の感情でも、その“程度”や“レベル感”が詳細に伝わってこないのだ。

東野圭吾の場合は、肉体の動きで語るからこそ、そのレベル感を読み取ることができる。例えば、同じ「驚いた」を表現するときでも

「両方の眉を上げ、目を見開いた」のほかに、

「ぎょっとしたように目を剝いた」と言い方を変えているシーンがある。

“開く”か“剝く”かの違いだが、たったこれだけでも程度の差を表すことができる。そして何より、“開く”と“剝く”の動詞を使い分けることができるのは、主語に「目」という肉体の一部を用いているからだ。だから、より詳細に人物の感情を表現するのならば、肉体がどう動いたかを書かなくてはいけない。

ちなみに、「驚いた」という言葉を固定して程度の差を出そうとすると、

「わりと驚いた」

「けっこう驚いた」

「めっちゃ驚いた」

としか言えない。抽象的すぎるにもほどがある。



物語のゴールに沿って必要な情報だけを書く

これは「東野圭吾ならでは」と言うより、もしかしたら小説のジャンルによって変わることなのかもしれない・・・が、一応挙げておく。

先日、純文学を読んだ際に感じたことだ。

自分の人生で最も親しみのある作家がミステリーを得意とする東野圭吾だからなのか、どうも純文学の「ねっとり」とした文章に読みづらさを感じた。

彼ら純文学作家の書く文章は、なにかと話がアチコチに散らばりがちだし、所々で「それ、何の目的で言ってるの?」と引っかかるものが多い。以下は僕の作った例文だが、大げさに書くとこんな調子だ。

僕は彼女に連絡をとろうと、バッグから携帯電話を取り出した。LINEを開くと、ポップアップで表示されたニュースが目に入った。今日の東京の最高気温は40℃近くまで上がるらしい。ふと、「去年の夏もこんな暑かったっけ?」と記憶を辿ったが、「2018年はここ数年間で稀に見る冷夏」と言われていたことを思い出した。年々不安定を極める気候に、いよいよ地球の終わりも近そうだな・・・なんてことを考えた。

「彼女に連絡をとる予定」が、いつの間にか「地球温暖化への懸念」に変わっているのである。そんでもって、この「地球温暖化への懸念」が最終的に結末に繋がっているのかと言うと、もちろんそんなことはない。単に文章量をカサ増しするために入れられた情報としか思えないのである。

とはいえ、「純文学」を辞書で引くと「大衆小説に対して“娯楽性”よりも“芸術性”に重きを置いている小説」とあるので、文章そのものに意味を求めること自体がナンセンスなのかもしれない。

「結末も大事だけど、その過程にある一文一文に変な情報が盛り込まれていても別にいい。そこに美しさを見出すことができるのならば————」

というのが純文学のスタンスなのだろう。


しかし、読みづらいものはどうしたって読みづらい。

その点、東野圭吾の文章は無駄な寄り道が一切なく、物語の結末から逆算して必要な情報だけしか入っていないのが何とも美しい。「複線回収の鬼」と呼ばれるだけあって、道中で何か引っかかるものがあっても、ラスト50ページには全ての謎が解けている。

ストーリー上、必要のない事実や描写は極力削ぎ落とす。そうすることで文章は洗練され、目的地に向かって読者を最短距離で導くことができる。

彼の小説を読んでいると、度々そのことを実感させられるのである。



本にハマるのなら、東野圭吾

以上、東野圭吾の「読ませる力」について書いてきたが、僕は「小説を読むのが苦手」と言う人ほど彼の作品に触れることをオススメしたい。一見ハイブロウな印象を抱きがちだが、長年に渡り幅広い年齢層の読者から支持され続けていることを考えると、やはりその理由は「読みやすさ」にある。

「読みやすい本」は、「読める自信」をつけてくれる。活字離れが問題視される現在、本が読めない人こそ、まずは東野圭吾作品に触れて読書の魅力を知ってほしい。





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