論文メモ 神なき時代の妖怪学 『現代民俗学研究』第9号(2017年3月)

廣田龍平による論文。

問題設定

妖怪研究の中心が民俗学から離れ、人類学の領するところとなった過程と原因を、小松和彦の妖怪論をもとに論じ、日本の妖怪研究が民俗学において周縁化されている理由を、妖怪の実在を受け入れる社会が寡少化に求める説に疑義を呈する。
妖怪研究は「神の探求」を周縁化することにより、民俗学的探究が可能になるのではないか、提案する。

メモ

・柳田国男をはじめとした民俗学者らは妖怪を「神の零落したもの」と捉えていたのに対し、小松はそれを批判し、超自然的存在が、その正負、あるいは祭祀の有無などによって神ないし妖怪にそれぞれ区分されるという図式を定義した。
・柳田の妖怪研究が(柳田の民俗学と同様に)歴史的な過去へさかのぼる拡張された「自己」の実存的な問題意識に依拠していたのに対し、小松妖怪論は、対象から距離をとり、客観性を確保するという意味で「妖怪の民俗学」ではなく「妖怪の人類学」と言える。
・分析概念として、研究の対象と主体を区分し、他者化する傾向を「人類学的傾向」とし、内省的に研究の対象を自己に向ける傾向を「民俗学的傾向」とする。
・しかし小松は、柳田ら民俗学者と共通する、「神の探究」という主題を持っていた。この点で小松民俗学は民俗学的傾向がある。しかし現代において妖怪は、神との関係を喪失し、神を追求するための対象にはならなくなっている。そのため小松は自身の民俗学においてむしろ妖怪を論じず、また妖怪研究においては妖怪=神であるような(現代に見られない)民俗社会を対象とするしかなく、人類学傾向が支配的なものになっている
・この観点から見るならば、現代における妖怪事例の減少とされるものは、神にかかわる妖怪事例の不在だと言い換えることができる。
・しかしそもそも、現代において妖怪が神とかの関係を喪ってしまったように見えるのは、現代社会のイメージを遡及的に民俗社会に投影した結果にすぎない。
・「神の探究」という主題においては、神との関係が喪われた現代都市社会の妖怪は、研究対象としては不満である。しかし、妖怪が神との関係性の中で論じなくてもいいとすれば、現代社会に現れる神と無関係な妖怪と過去の民俗社会の妖怪とのつながりを探ることができるだろう。
・このつながりを示唆する概念として、井之口章次が妖怪信仰の背後に想定した「妖怪現象」や小松が、妖怪が超自然的領域に位置付けられる前段階として述べた「妖怪の種」といったものが挙げられる。両者とも、これらの概念を妖怪研究の対象とは見なしていないが、それは彼らが「神の探究」を目的としているからである。私たちはむしろ、普遍的なこれらの「妖怪現象」や「妖怪の種」といったものを、不思議とみなす感性こそ人間社会にとっての妖怪の意義だとみなすことが出来る。
・妖怪をこのように扱うことで、その研究を人類学的ではなく民俗学ならではの対象把握を可能にする。そしてまた、民俗学の可能性や自己規定に資することになるだろう。

感想

「文中の表現でずっと小松和彦をチクチク刺している」と言う読み方をしてしまったので、ちゃんと読み取れているか怪しい。

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