短編小説|秋刀魚と兎
【1】
大人になると秋って、居酒屋でしか感じないよねと秋刀魚の骨をスイっと抜きながら美智子は言う。
俺は秋刀魚を綺麗に食べられる人になりたかった。
どうしても尊敬してしまう。
俺の秋刀魚は何か事件に巻き込まれたんじゃないかというぐらいグチャグチャだ。
味は同じだろうけれど綺麗に食べてもらえた魚はなんだか神々しい。
「マジで夏と冬に秋って押しつぶされてさぁ、無くなっちゃったよね。秋刀魚だけは食べたいわ…あと栗」
「だけじゃないじゃん」
美智子と話す会話に意味はない。
だから落ち着くのかもしれない。
飲み会で知り合って、関係性も利害関係もなく、数ヶ月に一回飲む関係。
俺より年下なのはわかっているけれど、一度聞いて覚えられなかったせいで、二度と年齢はわからない。
むしろ美智子とハッキリしたものが無いのが心地よい。あるとすればお互いがどうしようもない酒飲みだという事だ。
「秋は夏と冬のグラデーションの間にあるのは知っている」と美智子が独特な言い回しで言う。20代後半で色白で華奢な身体のどこにそんなに酒が入るのだろうといつも思う。
酔っ払ってる所も見た事がないし、酒が無くても陽気なので酒を呑む理由もわからないが、酒が無いと話せないといつも言う。
俺は勝手にずっと話してくれる美智子を楽な存在と捉えている。
テレビを観ているような感覚で美智子といつも呑んでいる。とても失礼だと以前怒られたが本当だから仕方がない。歪さは心地よさだと思う。
「スポーツも芸術もいらんのよ、秋刀魚なんよ」
壁に貼られた紙に《旬!秋刀魚一尾九百円》と達筆で書いてある。店主が気合を入れて書いたんだろう。俺の今年の秋の芸術要素はこれで充分だ。
季節を楽しむって、なんか割高だよねと美智子は言う。
旬だから秋刀魚は割安なんじゃないのかと聞き返すとそういうんじゃねぇと更に返された。
秋刀魚を食べたからと帰るでもなくダラダラと酒を呑む。帰ってやる事がない日。最高の夜。
銀杏、お待たせしました…という店員の言葉に、美智子の殻付きじゃんの言葉が重なる。殻を入れる為の皿を置いて店員が去る。
「銀杏の殻付きって最高だよね」
「あんまり食べた事ないな」
「嘘でしょ?ほら殻は剥いて中だけ食べるんだよ」
「流石にわかるよ、殻はコッチの皿に入れるんでしょ」
「そー、あっ、でも殻を持って帰ってもいいんだよ」
そうなのと聞き返すと、美智子が笑った。今日は機嫌が良い。
「日本酒飲もうかなぁ」
「飲んでるの見た事ないけど」
「貴方が見た事ない私はこの世に居ないってこと?」
「なんだそれ」
「そうじゃん。ん〜。お酒ってなんかジャケ買いみたいだよね」
「ジャ…?」
「名前とラベルの感じだけじゃん結局。味とか土地名なんてさぁ、言われてもわかんないけど、雰囲気良いの飲みたくなる」
「まぁ、確かに甘口辛口ぐらいしかわかんないかも」
「あぁ濁ってるとかトロミも私はわかるしな」
「なんで同調したのに、俺裏切られたの?」
「すみませーん。あ、このぉ、脱兎お願いします。ウサギが逃げてて可愛い」
「そう言う意味なの?脱兎」
「意味なんて自分達が決めりゃあいいじゃん。うさちゃん何から逃げたか話そうやぁ」
たまに会って飲むだけ。
季節の変わり目にそんな酒に救わられる。
【2】
脱兎が中々来ない。
ツマミも無くなった。
ウサギが逃げ回っているのだろうか。
美智子はそんなの何も気にしてない様で、俺の飲んでいたハイボールを水のグラスに勝手に半分移して飲み出した。
「銀杏ってさ、お店で出て来ると美味しくて雰囲気良いのに、街中で落ちて踏まれてると臭くてめっちゃ嫌なのが好きなんよ」
「嫌なのに好きってなんだそれ」
「食べる時は臭くなくて綺麗に盛られて美味しい…のに、落ちて踏まれたら臭いしグチャグチャ、なんか表情あっていいじゃん」
「美智子ぐらいだよ、そんなの言ってるの」
「この銀杏、オスかな?」
「オスメスとかないだろ」
「あるよ」
「銀杏に?」
「ある」
「木にあんの?オスとかメス?」
「あるって」
考えた事が無かった。俺はここに来る間に横切った街路樹達にオスメスがあるのにゾッとした。
「あ、やっぱ、あるよホラ」
スマホを鼻の辺りまでグッとされて近い近いと言わされる、いつものやつをしてから情報を見せられた。確かにオスメスはあるらしい。
「ってことはこの殻ついてる銀杏にもオスメスあるのかなぁ」と美智子がつぶやいた。
なんだか、少し食べにくくなった。
【3】
結局、脱兎は来なかった。
ラストオーダーの確認に店員が来た時にも、まだ来てなくて、聞こうとしたら「それはそれでなんか脱兎でいいじゃん」といって美智子はキャンセルしてレモンサワーを頼んでいた。
店を出ると、とても寒かった。
「冬だるぅ」
「もう冬だな」
「まぁ秋刀魚食べれたし今年セーフセーフ」
「家まで送るか?」
「あぁ送ってもらおうかな、コンビニ寄って良い?酒〜」
「まだ呑むの?」
「冬は散歩しながら凍えて缶チューハイ飲むもんよ」
「まぁなんか…わかる」
「ピザマンやってるかなぁ」
「凍えるのどうしたんだよ」
美智子はへへッと笑った。
美智子が白い息を空に吐いた。
すぐに白い息は世界に混じって無くなった。
季節が変わっても、何も変わらず酒を呑む。
遠く微かに金木犀の匂いがした。