見出し画像

映画「花束みたいな恋をした」今頃考察してみた(前編)

もう映画考察はやらないと思っていたのだが、
エンタメ業界の疲弊と一部の人間による
まだ世間を知らない
売れない若手俳優の夢や希望、仲間と
いうところに付け込んで
やりがい搾取が続く事に警鐘を鳴らす為に
重い腰を上げて何回か観て、
考察してみた。
養成所やWSへ安易に通ったり、
SNSで簡単に繋がり、
何かコトを起こす前に今一度、
この時代だからこそ、頭と身体を鍛え、
ショートカットしない人生を送ってほしい。

自分みたいにならないよう、祈るのみである。
この文章を残す事でほんの一部でも誰かに
刺されば幸いである。

相変わらず前置きが長くなったが本題に入る。

まず映画は必ず主人公がいて、
その主人公の
「設定」→「展開」→「結末」という流れで
2時間の物語が構成される。

では早速今回の主な登場人物。
菅田将暉演じる「麦」、有村架純演じる「絹」。

主人公はどちらだろうか?

主人公は絹と言いたいところだが、麦である。

絹は頑なに最後まで自分の生き様を
変えられず、麦は大学生から社会人、
そしてビジネスパーソンとしての
仕事の環境に飲み込まれ、「成長」と
しての変化が描かれている。

お互いの今まで持っていた「価値観」の変化が
あったのか?なかったのか?として
捉える事もできるだろう。

で、
主人公は「一番変化した人」という位置づけ
から麦とする。

二人はともにエンタメ好き
(小説、音楽、お笑い、映画)である事を
通じて趣味が合い、そして距離を縮めた。

しかし、大学生から社会人へと「年齢」を重ね、麦も社会に出て就職する。

仕事の時間が増えた麦は徐々にそのような
コンテンツを楽しむ余裕と
時間がなくなる。イラストレーター
として本気で食おうとさえ考えていた
麦が絹にいう台詞、

「パズドラしかやる気しないの?」は

今エンタメ業界で藻掻いている俳優
たちにも刺さるのではないだろうか。
「いつまでこんな事しているのですか?」と。

因みに経験上就職のデッドラインは
真っ白な職歴しかなかったり
または実務経験がないと
25歳を超えての正社員は厳しい。
それはそのまま生涯年収にも反映される。

新卒採用が毎年ニュースになるでしょう?
日本は新卒一括採用を昭和から
今も続けています。ではベンチャーは?
ベンチャーだと裁量範囲が広いし
キラキラして見えるがその分、
やる事が多いし、重大な意思決定の
連続なので体力的には歳取ると厳しくなる。
そんな風に捉えている
私の価値観も前時代的だろうか?

さて、とは言え物語は就職活動の
麦の心情の変化に沿って展開する。
就職活動の麦の心情変化を読み取る際、
分かり易いのは「台詞」である。

麦がライフステージによる自身
の「変化」を表している台詞を
いくつか紹介する。
「(イラスト)は仕事しながらでも描けるし、
食べていけるように
なったらまたそっちに軸足戻せばいいし」
「仕事は遊びじゃないよ」
「好きなこと活かせるとか、
そういうの人生舐めてるって考えちゃう」
「結婚しよ。俺が頑張って稼ぐからさ、
家にいなよ」

脚本ではいかにも前時代的な考え方を
麦に当てはめている。
当てはめているというかそのように
設計している。

映画脚本ではこのように話の展開を
する為に(心情変化)キーとして
出てくるのが「葛藤」である。
映画脚本では特にこの「葛藤」を
読み解かないと(俳優として)、
頓珍漢な芝居、インスタントな芝居、
パターン化された
芝居というか観ていてキツくなる。
要は「中身」がない芝居である。

葛藤とは、
目に見えて分かる葛藤、「外的葛藤」と
内面から脚本を深く読み込んで
描かれている「内的葛藤」がある。

ここでいう麦の「葛藤」とは単に会社に
入って変わったというのも
あるが、それだと読み込みが浅い。
「就職するというライフステージの
変化によって」
「元々幼少時から持ち続けていた
価値観が表出した」と解釈したい。
絹とは「育ってきた環境が違う」
という事である。

脚本の設定によれば、
東京の大手広告代理店に勤める
両親のもとで育った絹。絹の考えには幼少時から「女性が社会で活躍する」広告代理店という
職業柄、「仕事=カルチャー」みたいな生き様を踏襲する部分を描いている。
(養成所や弱小芸能事務所やSNS界隈の
胡散臭い奴らがよく言う
役に合うというのは、解説すると
自分のビジュアルとかバックボーンを
どれだけ役に寄せられるか?という事で
あり、シンプルな話、広告代理店に就職
して服装やライフスタイル、仕事の
進め方を学べば良い。実際は難しいが
養成所や事務所ではこんな事を平気で言う。
単純に胡散臭いのである。)

一方で麦である。麦の父親は新潟県出身。
ある意味「昭和の頑固おやじ」
的な描かれ方である。麦には日本の
「古臭い」社会とは、家族とは、が
インストールされている。

ここでもう一度映画の物語の進め方を
纏めておく。

「設定」→「展開」→「結末」である。

まず「設定」の部分における麦の行動には
「カルチャーとの両立」が
描かれている。
そこに「展開」として就職というイベント
が起きるわけだが、そのイベントが
麦の行動から「遊び」という概念を
奪ってしまう。
プロでも一般の皆様でも映画を
鑑賞する際は、ぜひこの「展開」の部分
における主人公の芝居を注目してもらいたい。
どの作品でもそうだが、
話の展開が変わる時とはその登場人物の
本来の「スタンス」や「考え方」が見えてくる。つまり「葛藤」が生じ、それにどう対処するか?
はその登場人物の「素」の姿であり、「生き様」を表す。

では、麦の内的葛藤(脚本に台詞として描かれていないもの)を抽出しよう。

「自分はカルチャーに没頭して社会に出て役に立っていない。もっと男らしく、教養を身に着け、仕事をして金を稼ぐ事が大事ではないだろうか?」

要は「カルチャー批判」である。

これは設定段階での麦のカルチャーコンテンツ
に没頭する姿との対比、
小説や音楽などの固有名詞の連打の台詞が
展開が進むにつれて、
無くなっていく・・・そして

絹から手渡される「茄子の輝き」
(滝口悠生著、新潮社、2017年)を営業車に
無造作に投げ入れるシーン、

ビジネス書「人生の勝算」(前田裕二)を
立ち読みしているシーン、は
カルチャーから教養へと変化する展開を
表している。

カルチャーと自己啓発との相性の悪さを
表すことによって、
アレルギー反応を引き落こす。
単純に時間が経過した冷めた恋人の話ではない。

考察について「中編」に続くが、
俳優という職業の人は映画を改めて
観て欲しい。皆歳を重ねて、
所謂「カルチャー」から私も苛まれて
いる「昭和的価値観」とのギャップに
悩んではいないだろうか。
「このままでいいのだろうか?」という
漠然とした不安はないか?
不安だけどSNSなどでオーディションや
繋がろうみたいなツイートが
流れ、それに乗り遅れてはいけない・・
という焦燥感はないか?

就職しながらでも俳優を続けられるのではないか?と。親に頼りきりではないか?

人生一回きりの割には情報量が多いのではないだろうか?とは感じますけど。
僕らの若い頃と比べて。

(中編へ続く)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?