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noteをはじめて半年、書くことに関して少しだけ学んだ

どこか具合が悪いのか、そういうお年頃になったのか。昨夜の娘は「身体のどこかがママとくっついていないとぐずって起きる」モードだった。仕方なく横になりつつnoteを書いていたのだけど、言うまでもなく、即寝落ち。
朝、愛犬テンコに起こされると、手のひらには書きかけのnoteが3行残されていた。

——3行! もはや無! 

一瞬焦り、すぐに仕方ないやと切り替える。どこかで帳尻あわせればいっか。1歳児の湯たんぽ力にはあらがえなかったんだよ。

……と、ここで「まあいいか」と思えるのは、noteを書くことが「仕事」ではないからだよなあ、と思う。これが仕事で、仕事相手がいて、締め切りを破ったんだったら、「仕方ない」では済まされない。わたしはそこらへん、大変まじめで誠実なのだ。

この「仕事じゃない」は、ネガティブな意味ではない。なんだろう、バトンズ社員のつとめ(=強制されたもの)ではなく、もう少しソフトな、日常の一部に近いという意味での「仕事じゃない」だ。

あらためて、わたしがnoteを書き始めた経緯を書いてみると。

2015年1月、batons始動。社長古賀さん、ある企みを胸にnote毎日更新をはじめる

田中さんも書きなよと誘われのらりくらりとかわす、を3年(!)繰り返す

2018年6月ほぼ日「生活のたのしみ展」でレポートを書き、自分が主語の文章を書くのも楽しいなと思う

1本目をしずかにアップする

その日、ツドイの今井さんと3人で肉を食べる。「ふたりとも、書きなよ」と言われ、「じつはさっきアップした、これから毎日書く」と宣言。

……という感じ。

なぜ、3年ものあいだ、のらりくらりを貫いたか。

それはシンプルで、自分の頭の中や腹の内を言語化してひとに見せることに興味がなかったからだ。というより、だれが読みたいねん、だった。考えたことや感じたことはつらつらとGmailの下書きに保存しているし、それで充分だって。

じゃあ、気が変わってnoteをはじめて半年、どうだったか。

まず、書くことについて、いろいろと発見があった。

アウトプットの場があると、言語化の精度が上がること。言葉の選び方や論理展開のクセ。そもそもの思考の傾向。文体。価値観。テンションの高いときの文章、低いときの文章。理解や整理が乏しいときのまわりくどさ、などなど。この、あらゆるクセを把握できたのはとてもよかった。

あと、インターネット上の膨大なテキストの中からわたしの文章を見つけ、読み、リアクションしてもらえることのうれしさは、書かなきゃわからなかった。どうもありがとうございます。


でも、いちばん大きな気づきは、「ウソは書けない」ということだ。

正確に言うと、自分にウソをついた文章は読めたもんじゃない、だ。取り繕った言葉でコーティングし、こねくり回した論理を振りかざす文章の弱さったらない。

この「まとめるためにまとめた文章」は、客観的に読むとびっくりするくらいつまらない。botが書いてるのかと思うほど単調で、アルコール度数1%の日本酒みたいな気持ち悪い薄さになる。

腹に落ちていないってこういう文章のことを言うんだな、と書いた本人ながら感心してしまうのだ。

そういうときは、もちろん消す。乏しい人間性が露わになってもいいからほんとの言葉を書かなきゃなと、書き直す。読んでくれたひとに申し訳ない気持ちもあるし、それをよしとしたら書く意味がないと思うから。

逆に、自分の言葉を使っているときは、たとえ結論が一般論であっても強度がある文章になる。読んでいて楽しいと思ってもらえるのも、たぶんこっち。結局、素直が勝ちなのだ。勝ち負けじゃないけどさ。


仕事になると、原稿を送る1秒前までムキムキに全力で粘ってしまうわたし。さらりとした一本を書く習慣がついたのは、総じてよかったと思う。書きはじめのころより四肢の力が抜けた、素直な文章になってるんじゃないかなあ。……そう自己評価しています。

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