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「そういえば」な成長が、日常をつくっている

昨日の、夕方の話だ。洗濯したシャツをばっさばっさと振り、シワを取っているときにふと気づいた。テンコ——愛犬が、ソファの上でぐっすり寝ていることに。

そして、じわじわと驚いた。なぜかって、彼女は元保護犬らしくたいそうなビビりで、うちに来たばかりのころはとにかく「思いがけない音」が苦手だったから。ゴミ袋を広げるときの「バサー」にも、ミキサーの機械音にも、毎度律儀に飛び上がっていた。ほかにも繊細な点が多くて、だから少し、気を遣いながら生活していた。

それなのに、いま目の前にいるテンコは、容赦なく大音量で振られる濡れたシャツの音にまったく反応していない。飛び上がるどころか、起きもしない。

気づかなかった。

彼女が苦手を克服していることに、気づかなかった。自分が気を遣わなくて済むようになっていたことにも、気づかなかった。

いったい、いつから、いろんなことが平気になったんだっけ?

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(初日。めちゃめちゃ警戒している)

そして夜、2歳の娘とお風呂に入っているときのこと。理不尽なほど機嫌が悪く、なだめたりおどけたりスルーしたりしていたのだけれど、最後に肩までつかろうねと声をかけたとき弾けるように娘が叫んだ。

「ねむたいからうぇんうぇん泣いてるの!」

はじめて言うセリフではない。むしろお昼寝に失敗しつづけている休園生活では、夜の頻出ワードと言える。

でも、愛犬のことが呼び水になったのだろう、ハッとした。0歳のころは不快なことがあったらただ泣くしかなかったのに(そして親はその原因究明に努めるばかりだったのに)、すっかり自分がなぜ泣いているか客観視して、言葉にできるようになっている。

彼女のこうした主張を「ああそうなのね」と受け入れて久しいけれど……いつからだっけ。いつから、八方手を尽くしても不機嫌な娘を抱いて、「なんで泣いてるんだろう」って絶望的な気分になりながらゆらゆらしなくなったんだっけ。

いつからお尻が赤くならなくなったんだっけ。いつから帽子を嫌がらなくなったんだっけ。いつから……

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(生後2日目。髪が多い)

たとえば、「お手」ができるようになったとか、トレーナーさんの指導で散歩が上手になったとか、顔にぶつけてばかりだったボールをキャッチできるようになったとか。

たとえば、平均よりずいぶん遅かったけど歩けるようになったとか、言葉がものすごい勢いで出てきたとか、箸や鉛筆を使えるようになったとか。

わかりやすくできるようになったことや瞬間は、わりと記憶に残っている。

それなのに、いつの間にか克服したこと、いつの間にかしなくなったこと——つまりマイナスがゼロになったことや瞬間は、思いのほか覚えていない。気がつけば当たり前になって、日常になって、さも昔からこんな感じだったよな、みたいな顔で享受している。「そういえば」と思い出すまで意識にも上らない。

なんてこった!

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日々をていねいに、大切に過ごしている人にとっては当たり前すぎることかもしれない。でも、大雑把に生きているわたしは昨夜気づいて、こうしておおきな衝撃を受けている。

あらためて、君たちなかなかすごいな、がんばってるな、愛おしいなと思った。この日常こそが成長の証なんだな、と。

きっとほかにも、わたしが見過ごしているたくさんの「そういえば」が彼らにはあるのだろう。これからも、増えていく一方だろう。また、すっかりおとなになった自分にだって「そういえば」な変化があるにちがいない、彼らほどじゃないにしても。

だから、これからはもう少し「目立たない成長」にも意識を向けてみようと思う。それは、日常を日常たらしめているたいせつな要素だ。

もちろん毎日「ああ、いつから……」なんてていねいに意識できる自信はまったくない。数日後にはすっかり忘れているかもしれない。でも、できればときどきは思い出して、「なかなかすごいぞ」と讃えていきたい。小さき者たちも自分も、この日常も。

そこに気づける親や家族って悪くない気がするし、この大変な状況のなか、自分にとっても優しい行いな気がするから。


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