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「育ち」という物語

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リアリティショーにうっすら抵抗感を持ちつつも、なんとなく流し見してしまうのが「バチェラー」シリーズだ。ひとりの男性をめぐって十数人の女性がバトルする(という建て付けの)恋愛リアリティ番組で、シリーズ5作目になる。今朝もメイクしつつ、舞台であるメキシコの風景を楽しんだ。

バチェラーシリーズは「運命の人=結婚相手を見つけること」がゴール。そのため、最終的にはお互いの家族と会うイベントが発生するし、バチェラーも参加者も自分も生まれ育ちや理想の家庭についてよく話をする。

それで今回の参加者の中にも「自分は両親から深く愛されて育った」という女性がいた。その方は(少なくとも編集を通して見ると)おだやかで品があり、とくにある回のふるまいはとてもあたたかいものだった。「なるほどなあ」と思った。

——が、この自分の「なるほど」に瞬間的に引っかかった。そして思い出したのが、テレビ番組『ねほりんぱほりん』のディレクター対談だった。「プロ彼女」「元詐欺師」といった特異な経験を持つ人の話を根掘り葉掘りするこの番組の、担当ディレクター2人の取材対象者への迫り方がまったく違ったのだ。

1人は「生い立ちをじっくり辿る派」。家庭環境や親、子どもの頃の体験といった「育ち」の積み重ねにこそ人間形成の根っこがあるはずだという意見。
もう1人は、「生い立ちに惑わされないようにする派」。「育ち」で勝手に物語を決めつけてたくない、そういう目で見ちゃいけないと思うんです、と言う。

まず、後者のディレクターが考えるように「育ったように育つ」で済ませられるほど人は単純ではない、というのは間違いないと思う。いまぱっと思い出したのが、まったく褒められずに育てられたし、いい雰囲気の家庭でもなかったけれど、やけに自己肯定感が高く愛情深い友人だ。子どもが生まれた知人たちから「お前みたいになってほしいがどう育てられたのか」と聞かれるほどで、けれど、母親に尋ねたところ「解なし」だったそう。Aボタンを押したらA'人間になるわけではない。

育ち、というものは自分で選択できない時点でどうしようもない暴力性をはらむし、「いい」「悪い」と他人が評するのはとても下品で乱暴だ。出会いや学び、思索によって人間は変わっていく。人にはそれぞれ複雑な個性、持って生まれた傾向だってある。「育まれたもの」がすべてではない。

けれど一方で「育ち」はひとつの事実でもあって、「育ちと人間性」をまったく無視することはできないとも思う。親や幼少期の生活が与える影響がゼロなはずがない。些細でおおざっぱなところで言えば「長女っぽい」とか「転勤族の子っぽい」といった性質にも心当たりがあるところだし、わたし自身、よくも悪くも「ああいう育てられ方をしたから」と思うところは数多ある。

でも、無視できないものだからこそ、相手の話を聴いて文章を書く人間として「AだからA'」というインスタントな理解に逃げないようにしなきゃと強く思う。自分が理解できるよう都合のいい物語を組み立てる。理解できる物語でしか他人を受け入れない。そうすれば楽ちんに書けるだろうけど、そうなったらもう、書く資格なんてないだろう。

……と書いたけれどこれは「書く人間として」じゃないな、「人として」だな。どんな相手であれ、わずかな情報でわかったような気になるのは愛のない姿勢だ。

じゃあどうすればいいのかというと、「ちゃんと知る」しかないのだと思う。「この人を理解したい」と心から願い、かつ相手が許してくれるなら「どんなふうに育ってきて、なにを考えてきたのか」を一緒にさぐらせてもらう。その結果の「長女だったから」は背景含めて彼女を理解するひとつのファクターとなるはずだ。相手の海にもぐるような意識がないと、その「長女」はただのレッテル貼りで終わってしまう。

話をていねいに聴いたうえで「だからこうなった」ところはすくいあげるし、一方ですべてを「だからこうなった」に結びつけたりはしない。そこは白黒わけられないし、マニュアルにできない。「なるほど」への引っかかりは、安易な理解に対するアラートだったのかもしれない。

過去を単純に無視するのではなく、「育ち」の物語に押し込むのでもなく。

——なんてあいまいでむずかしい。けれど油断するとわかりやすさに逃げそうになる自分への戒めとして、心に留めておきたい。ぜんぜんそういう番組ではないけれど、バチェラーシーズン5の、わたしなりの教訓だ。


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