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親だけでは子にあげられないもの

晴れて小学生になった娘とライターの先輩Sさんと女3人、ディズニーランドへ行った。

具体的な経緯は覚えていないけれど、三軒茶屋のイタリアンでワインをたっぷり飲んでいるときに(娘はジュース)Sさんが娘を誘ってくれたのだと思う。互いに思い立ったが吉日タイプ、即、平日放課後に決行された。

13:30下校。舞浜へは車だと30分弱で着く。カーシェアを手配してSさんを迎えに行くと「運転できるんだ!」と思わぬところで尊敬された。Sさんはテレビの制作会社で働いているときにベテラン芸能人を乗せた車を側溝に落とし、それ以来、ほぼ運転していないのだという。娘は「どうして運転が下手なの?」としきりに聞いていた。

そんなおしゃべりをしながら着いた「夢の国」は、さすがというか、楽しかった。

巨大なミニーの風船を買い、全員でカチューシャを着け、名も知らぬ、おそらくドナルドの血縁キャラクターと写真を撮り、「ディズニーリゾートは『何が楽しいのか』を言語化できない場が多いのがすごい」と言いながらさまざまなアトラクションに乗った。娘はアイスにパレードにと文字どおり嬉々とはねていた。

悔いなく満喫し、打ち上がる花火を横目に車を出す。Sさんを最寄り駅まで送り届けると急にしんとする車内、後部座席でぐむぐむと眠る娘。

満ちた息と共に言葉が漏れた。
「親だけじゃあ、ねえ」
Sさんは覚えていないかもしれないけれど、車の中ではひとり言が10倍になる。

就活時、どうも自分と社会との距離の遠さを感じていた。「働く」がわからない。

なぜだろう、考えて、自分の「おとな像」の貧困さに気づいた。とくに「おとなの女性像」が画一的。親族には専業主婦か寿退社した女性しかいなかった。友だちのお母さんも家を守る人ばかりだったから、そういう時代、地域、学校だったのだろう。

もちろん、アルバイトにも打ち込まずろくにインターンもしなかった社会への関心の低さに問題はある。なぜかうっすらアンチ資本主義だったせいもあるかもしれない(小学生のときは貧富の差を憎み、「みんな同じお給料にすればいい」と主張していた。「それはもう失敗した」と言われた)。

ともかく「働く女性像」にピントが合わず、それは自分を社会にチューニングするまでに一定のロスを生み出した。

だからこそ娘がさまざまな女性に——「働き方」に限らず——接しているのを見ると少しほっとする。多様な人生を知り、あわよくば社会に親しみを持ってくれたらと願ってしまう。そのうえで、自ら選び取ってくれたらと。多様さは、親だけでは絶対に与えられないもののひとつだ。原理的に。

そしてもうひとつ、親が当たり前にロールを担えないのが「他人のおとな」だ。

フィクションから影響を受けているのは承知の上で、しかし僅かながら実感を伴って、上下関係のないおとなの存在はある程度、子の助けになる気がしている。

Sさんが最も好きだという「スプラッシュマウンテン」、列に並んだものの耳に届く「キャー!」という声に娘は怯え、乗りたくないと口角を下げた。そんな彼女にわたしたちは「あれは『イエーイ!』だから」と説明したり、「もし怖かったら二度と乗らなければいいよ」と元気づけたりした。

無理やり乗せたいわけじゃない。これまで娘を見てきた2人とも「この子は大丈夫」という確信があったのだ。

はたして実際、そうだった。わたしが丸太ボートの前の席に1人で、後ろに娘とSさんが乗ったのだけれど、出発後すぐのちいさな落下を経るとすっかり疑いの晴れた朗らかな声が聞こえてきた。始終おしゃべりし、日暮れに浮かぶ園内の灯りに歓声を上げ、最後は滝壺に落ちて大濡れしながら「もう一回落ちたい!」と大笑いしていた。

丸太ボートを降り、Sさんが娘に言う。

「外から見るほうが怖いんだよね。実際にやってみると、そうでもない」

艶のある声を背中で受けながら、その通りだなと思った。飛び込んでみると意外とどうにかなるし、楽しかったりする。そして、Sさんは無意識に違いないけれど、こういう含蓄のある言葉は親以外からさらりと聞くのがよかろうなあと思った。

いま、娘のそばには「他人のおとな」が何人もいる。みんな彼女を大事にしてくれる。おかげで彼女はすっかり「おとな」が好きだ。ほんとうにありがたいし……正直、羨ましくもある。

いろんな人がいるし、いろんな考え方、場所、世界がある——と理屈ではなく環境で体感する、それはまぎれもなく自分が親にしてほしかったことだ。恨み節ではなく、少し足りていなかった、と感じること。「子にしてあげたいこと」の中に「してほしかったこと」(あるいは「してもらってよかったこと」)を忍ばせてしまうのが、子育てなのかもしれない。

もちろん、これがいい結果を招くかどうかわからない。子育てにおけるいい結果とは何か、という話でもある。自分の選択と子を信じて半目で、ときに目をつむって進むしかないのもまた子育てなのだろう。

東京で、核家族で、ひとりっこで、公立校で、なんといっても専業主婦のような手厚さは皆無。

親からもらったのとはまったく違う環境だし、わたしと娘の気質もてんでちがう。いちいち手探りで試行錯誤の連続で時折なにかに頼りたくなるけれど、ググっても本を読んでもお教室に行っても正解は見つからない。ABテストはおろか答え合わせも一生できない。それなのに「人間を育てる」という責任だけは重大だ。

言葉にすると途方もない。けれど。Sさんの言葉が耳に蘇る。

外から見るよりも、やってみると楽しいものなのだよな。子育ても。

親があげられないものは、まわりの力を借りながら。一回きり、巻き戻しなし、もうじき7年目に突入する子育ては延々、延々と続いていく。

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