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言葉は通じないけども、犬との暮らし。

玄関横の土間で仕事をしていると、愛犬が文字どおり「くぅーん」と鳴きながら困った顔をしてやってきた。どうしたのと声をかけながら立ち上がると、再度「くぅーん」と鳴きながらリビングのほうにたったったっと駆けていく。だらりと垂れた尻尾を目で追いかけるわたしを振り返る。「くぅーん」。そうか、そっちに来てほしいのかい。リビングに向かうとワタワタ、はじめて見る動き。でも……その動きにピンと来る。愛犬と目が合う。「くぅーん、くぅーん」。——ああ、わかったよ。

室内ではトイレしない(できない)派の愛犬なので、洗面所の戸棚に詰め込んだままのトイレシートをいそいで引っ張り出して敷く。一応シート=トイレの認識がある彼女は、「くぅ」と言いながらワタワタ近寄ってきた。そしてシートをふみふみして場所を確認すると、情けない表情で私の顔をじっと見つめながら、ひどくくだした。お互い初体験だ。

動物と暮らしていない人には「なにを言っているんだ」と思われるかもしれない。けれど、このとめどない排泄物を受け止めるシートを手でおさえているときの愛しさは相当なものだった。だって言葉が通じない存在と、たしかに気持ちが通じたのだから。

保育園に通う我が子との暮らしの中で、わたしは彼女の「言葉のインプット」や「言葉を使いこなすまでの過程」に高い関心を寄せていた。まねしたり、言い間違えたり、試行錯誤しながら日本語を会得し、コミュニケーションに反映させていく。2歳で言葉をうまく扱えず怒り泣きしていたこと、3歳で「遊んでる場合なの!」と主張していたこと、4歳で突然「しかしながら」を使い始めたこと、5歳で「ママはぬかりあるね」と笑っていたこと。こうした思わず抱きしめたくなるような途上の言葉はだんだんと減っていき、意思疎通はどんどんスムーズになってきている。

一方、犬はしゃべれるようにはならない。まねすることも、言い間違えることもない。自分の名前やこちらの「スワレ」などのちょっとした指示は記号として理解しているけれど、「今日はぜんぜん仕事が終わってないから、散歩もう少し待ってくれない?」といった言葉は伝わらず、「そろそろですかね」と本犬が思えば玄関先に鎮座して動かない。

それでも今日、危機的状況を迎えたふたりはあうんの呼吸だった。意思を交わした。「大丈夫?」とか「しんどいねえ」と言葉はかけていたものの伝わっていたかはわからない、でも「助けて」と「がってん」ががっちりと噛み合ったのはまちがいない。

犬は、しゃべれるようにならない。人間同士のように言葉で説明したり指示したり説得したり、愛をたしかめたりすることはできない。でもそれは「劣っている」ということではない。だって「わたしたちの関係ってさ、前よりずいぶん深くなってるよねえ」「わたしたちって、仲良しだよねえ」とときどき、言葉ではない……ひょんな出来事とか、空気とか、目線とかで、じゅうぶんに確認できるのだから。「愛してるよ」の言葉を介さずに。

そういう、うそのつけない豊かさが、犬との暮らしがくれるひとつの醍醐味なのかもしれない。


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