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「マーケティング(Marketing)」、さようなら。「コミュニティイング(Communitying)」、こんにちは。

いつからか「広告」が、しんどい。
「広告」をつくる側に身を置いていながら、それが偽らざる実感だ。
それが「マスメディア」を通じた「マス広告」に対する違和感なのかとも考えたことはあったが、どうもそうではなさそうだ。
PCやスマホに触れていても、「広告」に出くわす。
「ネット広告」は、「なぜそれがわかるの?」というモノやコトを薦めてくる。
つまり、薄気味悪いのである。
どうやら「広告」を発信するサイドの考え方や方法に、この時代に生きる一人の人間として、疑問を持っているのはないかと思うのである。

この時代とは、多くの人々がスマートフォンを持ち、誰もがコンテンツホルダー、誰もがメディアとなって、世界中の人とつながれる時代のことだ。さらには誰もがメーカーにもなりうる時代だ。2007年のiPhone誕生を契機に、これまでの生産者/消費者、送り手/受け手という2項対立が融解している。スマホを持ちさえすれば、手にできる力。まさに”Power to the People”を実現した革命だと、後世の歴史家は記述するのではないか。

近代の大量生産・大量消費を促進する、「マーケティング」へのアレルギー反応が出ているのだと感じる。もはや人々は自分たちが「ターゲット」とされていることに気づいている。思えば、人様を「標的」扱いする思考というのは、生産者/消費者、送り手/受け手の持つ情報の非対称性を前提としており、「マーケティング」主体による操作主義だとも言える。その「マーケティング」の最たる手段である「広告」は、時として暴力性を帯びることも否めない。
あらためて、「マーケティング」が、「市場(Market)」の現在進行形からなる用語であることに着目したい。商品やサービスの「市場」があることを前提に、「市場におけるターゲットからの利益を最大化し続ける行動」が、「マーケティング(Marketing)」とするならば、現在、その代替案となる考えとは、どのように描けるのだろうか。
「市場」に対置すべきは、人々がフラットにつながりあう「共同体」ではないか。そのつながりは、昔ながらの血縁地縁にとどまらず、経歴や趣味嗜好が同じ、推しが一緒などなど、「同じを共有できる主体」こそ「共同体」。インターネットを介し、「この指止まれ!」と時空間を自由に組織化できる「共同体」にこそ、これからの可能性がありそうだと思うゆえんである。それは、ピーター・ドラッカー御大が唱える事業目的「顧客の創造」の今日的あり方でもある。『フラット化する世界』の著者トーマス・フリードマンも「いま、リーダーシップより、コミュニティシップが重要」と言っていたぞ。

グレート・リセット、ナウ!
コミュニティ・ファースト!

「マーケティング(Marketing)」からパラダイム・シフトする、オルタナティブ・コンセプトとして、「コミュニティイング(Communitying)」を提唱したい。
「コミュニティイング(Communitying)」とは、人々を有機的につなげる共同体を形づくり、そのコミュニティの発展に寄与・貢献し続けること。コミュニティをオーガナイズし、オペレーションしていくプロセス全体の中に、これまでの伝える、売るなどのマーケティング活動が包含されているイメージ。「ターゲット」を操作するのではなく、「オールステークホルダー」の利害調整をすることが、「コミュニティイング(Communitying)」だ。何よりも人々の気持ちを尊重するから「アテンション・エコノミー、さようなら」。人々の気持ちが寄り合う「エモーション・エコノミー、こんにちは」。(わたくしは「寄り添う」という言葉が恩着せがましくて苦手です、ごめんなさい)
今現在"Communitying"はググっても用例が少ないようで、日本語表記も「コミュニティイング」か「コミュニティング」か迷うところ。しかし、
Let's Communitying!
(まずはコミュニティをつくってみたら「ええじゃないか」運動)
"Communitying Manifesto"を恐る恐る世に問うてみる。

以上、一昨日、155人目の田中宏和さん、北海道札幌市で看護師をされている「動物王国の田中宏和さん」と初めてリモート初対面した、同姓同名収集歴27年、「田中宏和運動」の「ほぼ幹事の田中宏和」として同姓同名コミュニティ主宰歴18年、一般社団法人「田中宏和の会」代表理事の田中宏和(52歳)の「青年の主張」でした。

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