【短編小説】 染まる
私の視線に気がつき、イナモトさんは手を止めた。でもすぐに理由が分かったのか「ああ」と声に出す。
「カラー剤で染みちゃって。職業柄どうしても色がついてしまうんですよね。ネイルしているみたいってよく言われるんですよ」
自身の爪を見ながら「あはは」と笑う。
しまった。いつもはこっそりと見ていたのに、今日は気づかれてしまった。とっさに「へえ。そうなんですね。美容師さんも大変ですね」と知らないふりを装ったけれど、黒っぽく染まっているイナモトさんの爪を、私はずっと前から知っている。
「はい、お疲れ様でした。とってもお似合いですよ」
あっというまの2時間だった。奮発してオーダーしたTOKIOトリートメントのおかげで、今日はいつも以上に髪の毛がツルツルだ。毛先に触れるとしっとりと柔らかくて気分が高まる。大学生の私からするとちょっと贅沢だったかもしれないけれど、うん、やっぱりオーダーしてよかった。
「これからどこかへお出かけなんですか?」
お会計の際に聞かれてドキッとする。本当ならデートとか友達と会うんですとか、充実した理由があったら良かったのだけど、あいにく私には何もない。
「あ〜えっと……〇〇百貨店で買い物をしようと思って」
「今日は天気もいいし、買い物日和ですよね。あ、そうだ。ちょうど今、あそこの百貨店で北海道フェアをやっているみたいですよ。同僚がそこで食べられるバニラアイスが美味しかったって言っていました。良かったら覗いてみてください」
「あ、はい」
「週末楽しんでくださいね」
軽く微笑んだ表情にふわっと心が軽くなる。こんな無難な回答に対しても適当に返事をするのではなく、ちゃんとイナモトさんの言葉で返してくれる。彼にかかれば社交辞令さえも心地よく感じてしまう。そういうところがいい。
お店を出て百貨店を目指す。よし、バニラアイスを食べてみよう。今度お店へ行ったときに「食べました」って言うんだ。これで一つ、話題ができた。
今日の私はこのままどこかへ飛んでいけそうなくらい、足取りが軽かった。
***
Googleマップを指先で操りながら目的地へ向かう。
平日の昼下がり。私と母は最近オープンした大型の本屋へと向かっていた。
「Google先生的にこのあたりのはずなんだけど……」
「……あ!これが入り口じゃないかしら?自然も多くておしゃれね〜」
「カフェも併設されているから敷地全体が広いんだね。本のジャンル別に建物も分かれているみたいだし。お母さんはどのジャンルが見たいの?」
「3号館の2階にある音楽コーナー!本だけじゃなくてレコードの販売もしているみたいで行きたかったのよね」
敷地内に入ると、音楽好きの母は早速3号館へ向かった。私は他の棟で好きな作家の小説を探すつもりだ。
平日だからかまだ空いている。週末になるとかなり混むそうなので、今日来て大正解。卒論や社会人になる準備はあるけれど、就職活動が終わり余裕が出てきた今、話題の本でも読みたい気分だった。
好きな作家コーナーを徘徊したあと、コーヒーや紅茶の本が並んでいる棚へ向かう。最近お茶にハマっているから、種類や淹れ方を勉強してみたい。
そういえば、前にイナモトさんもコーヒーが好きだって言っていたっけ。
ぎっちりと本が詰まった大きな棚を見上げる。なんて豆だったかな。ブラジル?ベトナム?エチオピア?ああ、産地も種類も完全に忘れてしまった。毎回話すことにいっぱいいっぱいで、詳しい内容が頭に刻まれないのが悔しい。
コーヒーを飲む姿、きっと似合うんだろうなあ。
いつか一緒に飲めたらいいなと思うけれど……馬鹿馬鹿馬鹿。そんな淡い期待叶うわけないじゃないか。私なんて、ただの客だ。
「ただの客」と、改めて自覚しただけで急に辛くなり、頭を振り自分に喝を入れる。せっかく本を選びにきたのに、何を考えているんだ私は。
豆の種類が書かれていそうなコーヒー辞典を見つけ、そっと手を伸ばす。これを読んでどんな産地があるのか調べてみよう。と、手を伸ばした瞬間、右側からにゅっと腕が伸びてきた。
あ、本を取るタイミングが一緒とか気まずいな。瞬時に脳内でもう一人の私がこぼす。一旦手を引っ込めるかと思った瞬間、見覚えのある爪が目に飛び込んできた。
骨張った細長い指に、短く整えられた綺麗な爪。そして、黒色。
……私、この爪を知っている。
ドクンと心臓が一気に跳ねる。
急な出来事に情報の整理が追いつかない。いや、待て、人違いの可能性もあるじゃないか。
中途半端に上がったままの手を、ここからどうしたらいいのだろう。
どうする?どうする?
右を向く?向かない?
頰が赤く染まっていくのが、自分でもよく分かった。
こちらは、第1回文芸課題"ぶんげぇむ" 参加の記事です。
◆お題:「レコード」「ネイル」「スマホ」
◆執筆ルール:
・お題に沿った作品を作ってください。
・小説/エッセイ/詩 などの形式・ジャンルは問いません。
・3つのキーワードを作品に登場させてください。ただし、文字そのものを登場させる必要はありません。
最後まで読んでいただきありがとうございます!短編小説、エッセイを主に書いています。また遊びにきてください♪