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与える、欲する、受け取る

 いつものバーで、いつものように時間が溶けていく。気づけば他の客はいなくなり、大好きな友だちである店主といらちな配慮の塊と3人になっていた。
 たしか、高いウイスキーでウイスキー・ソーダの黄金比をつくると、お酒にくわしい3人が算数を用いて実験を繰り返していた。「この人たち、ばかだなー」と思いながら撮影する私。「撮るんじゃねーよ」と口調が酔っ払いになってる友だち。
 何本目かのタバコを吸って戻ると、友だちが「結論出た、サントリーはすごい」とグラスを差し出す。「うーん、なんか薄い」「ばかだろ」「好みの問題でしょ」、みたいなやりとりがあったような、なかったような。
 そして、いつの間にか話はウイスキーを離れ、飲み比べをしていたひとりも消えた。

 それより前、いらちな配慮の塊はとある客とぶつかっていた。好きでもない人とやり合うのは時間の無駄、楽しくないのに議論するなんて言葉の無駄。なんでそんな無駄なことしてるんだろうなぁと思って見ていた。
 どうやらとある客の隣席の客を救いたくて、配慮の塊はやり合ったらしい。店主も同様に策を弄したがうまくいかなかったと言う。
 まあ、私からすれば、いい年した大人なのだから、自分の状況を自分でコントロールしないでどうする、という感じ。隣席の客がやっつけたいならやっつければいいし、逃げたいなら逃げればいい。
 ぼんやりそんなふうに思いながら、話を聞いていた。

 それが、なぜか火の粉が私に降りかかってきた。なぜそんな羽目に陥ったのだっけ。
 ああ、誰かが誰かの胸をつかんだという話をして、その流れで私もおっぱいセクハラ受けたことあると言ったんだった。「でもさ、おじさん、きっと私が自分と年の近いおばちゃんだとは思ってないからそんなことしたんだよ。もっと若い子のおっぱいだと思ってセクハラしたんだと思う」と言ったところから、ドツボに向かって一直線。
 最近、私への当たりを強めた友だちが詭弁を弄する。いや、詭弁とは言い切れないか。「17歳が15歳に欲情するのがおかしくないなら、65歳が60歳を性的対象とみなすのもおかしくないよね?」って、言葉の理屈では間違ってないし、おじさんの性的ストライクゾーンを勝手に若い子としてるのは間違ってるとは思う。けれど、そう言う友だち自身が40歳で29歳と付き合っているのだから、私の見解もありよりのありであろう。

 強気で攻めてくる友だちにどう反論しようか考えていると、配慮の塊から二の矢が飛んできた。何と言われたのか、もう覚えてない。思うに、その考えている時間が友だちにとって無駄であり、他者に損をさせることについてどう思うのか、ということだったはず。たぶん。おそらく。たしか。
 だって私はトロいんだもん。考えたことを言葉にして口から出すのが苦手だから時間かかっちゃう。この間、半年前くらいに言われたことに対する反論をやっと思いついたくらいなんだから。
 友だちが待ってましたと言わんばかりに噛み付いてくる。「いつもそんなふうに『私は知らない』『私は悪くない』みたいなことばっかり言うよね」みたいなことを言ったと思う。
 正直、ふたりが何を言っていたか、何を言いたかったのか、まったくもって覚えてない。なぜなら何を言いたいのか、全然理解できなかったから。

 気づくと友だちは飽きていて、私は隣りの配慮の塊と議論にならない議論をしていた。だって理解できないことに対して反論なんてできるはずがない。
 バーを出て車に戻った後、思い出せる断片を集めた結果が前述のつぶやきだ。

永遠にわかり合えない人たちの問い。あなたは他者と交わるとき何を与えるのか。他者ありきでないなら家で一人でいればいいのに、なぜ他者と交わるのか。私の解。私はそこにいる。そこから誰かは何かを受け取る。私もそこにいる誰かから何かを受け取る。人が人に与えられるものなんてない。と思う。

 配慮の塊は、配慮しながら遠慮ない言葉を浴びせてきた。「だったら家から出るなという話ですよ。人がいるところに来るなってことです」
 それに、うんうんとうなずく友だち。ってことは、私にここに来るなということ?
 ふたりとも、大いに失望しているように見える。なんだかこの感じ、前もあった気がする。うちのシェアハウスのクラファンのとき、一言愚痴をこぼしたことをきっかけに叱られたあの夜のよう。あのときも、大好きな友だちともうひとりの友だちにがっかりされ、できないやつの烙印を押された。
 しかし、配慮の塊は自分で私を突き落としておきながら、すくい上げたいらしい。あの手この手で私を自分側にいることを言わせようとする。忙しい人だなぁ。
 ふたりの失望の表情に胸が痛かったけれど、同時に私の胸ぐらをつかんで突き落とそうとしたり、引っ張り上げようとしたりする配慮の塊の右往左往ぶりを楽しむ私もいた。(やっぱりここでも傍観してしまう)

 必死の配慮の塊とは対象的に、飽きっぽい友だちはタバコを吸いに出たり、エプロンを取って客席に座り、カウンターに上体をもたれかかってみたり。おやおや、お客がいるのにこっち側に座るの初めて見たよ。あらあら、そのまま寝ちゃう?
 いろいろアピールしたものの、一向に話が終わりそうにないと踏んだ友だちは、とうとうキーホルダーから店の鍵を外し「鍵かけて帰って」と言った。「もう帰って寝る」
 効果てきめん、配慮の塊は謝りながら帰り支度を始めた。いつもであればもっと早くに「ああもうやめましょう、帰りましょう」と言うのに、今夜はなかなか帰ろうとしなかった。前の客とのやり合ったことで気持ちが高ぶっていたこともあるのだろうが、何か少し違う気もする。
 東尋坊の崖の上に追い詰められたくらいの切羽詰まった状況にもかかわらず、相変わらず私は俯瞰から自分たちを見下ろしていた。

 店を出てからも、交差点であっちとこっちに分かれるまでも話は続き、分かれた後も「この続きはこの次に」との声が飛んでくる。
 私だったら、きっと無駄だともっと早い段階で話を打ち切っただろう。それ以前に話にならないと思ったはずで、その場合、話すらしなかったと思う。
 彼は、楽しくないけれど私を好きだから無駄と思わず議論を続けてくれたのだろうか。私だったら「無駄」と切り捨てるところを、何とか切り捨てずに済むマイクロポイントを探してくれたのかもしれない。
 こんな何も与えない、与えられない私を慮る彼に何とか応えたい。何ひとつ言ってる意味がわからないけれど。
 たぶん前提が異なるのだ。X の立体を上から見れば I に見える。でも正面から見ると X で、入口も出口も一致しない。もしかすると正面から見て交わっているように見えるけれど、/と\が宙に浮いて接してすらいないのかもしれない。

 私はただ生きている。成長したいとも、進化したいとも思っていない。死んでいないから生きている、だけ。
 私はそこにいる。そこにいること、それがすべて。誰かの役に立つ、価値があるからいていいわけじゃない。ばかでも、おろかでも、できないやつでも、何ひとつ理解できなくても、そこにいていい。
 私に与えられるものなんてない。人は誰かに何かを与えることはできない。与えたいと思うことはできる。与えたいと行動することはできる。でも自分が誰かに何かを与えるなんて驕りだ。
 私は受け取ることができる。与えようとしたものかどうかは、わからないけれど。相手から発せられたものをキャッチする。でも、受け取りたいとは思っていない。いや、欲するときもあるけれど。欲しても手に入らないものがあることを知っている。
 私は他者のために何かをしない。私は、私のために何かをする。それをすることで私がよい気持ちになるから、する。大好きな人が喜ぶと自分もうれしくなる。大好きな人が幸せだと自分も幸せになる。だから、する。すべては自分のため。

 帰り道で考えたことを、家に着くなり140字にまとめる。そして今、ようやっと言いたかったことを書き上げた。
 さあ、かかってこい。反撃準備は整った。でも果たしてこれが反論になるのか。もし失望を絶望に変えてしまったら…
 それよりも「焼酎水割りの黄金比は?」なんて聞いてみようか。そうやってやがて訪れる別れのときまでやりすごせたなら。




ネコ4匹のQOL向上に使用しますので、よろしくお願いしまーす