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AI と表現

 AI(Artificial Intelligence アーティフィシャル・インテリジェンス:人工知能)は表現できるのか。AI が絵を描き、写真を撮り、小説を書く。人間にできることは何でもできる。のだろうか。
 少し前、いつものバーでこんな会話があった。
「撮影の仕事をしている人に失礼かもしれないけど、この先、カメラマンって必要ですかね」
「いらないと思う。誰でもスマホで撮影したら補正も全部いい感じに仕上げてくれて、それで十分ってなるよ。すでにカメラは必要ない、スマホでいいもん」
 そう答えた店主は、撮影業をしている。いつも案件に全力を注ぎ込み、出来上がりに絶望し、撮影の仕事から足を洗おうか悩み、それでも依頼があればどこにでも駆けつけ、ギャラに関係なく全力を尽くす。
私は友だちの写真が大好き。音やにおいが感じられる、撮影した瞬間の前後の物語が浮かぶような写真。まるで映画のようだ。
 なのに、「カメラマンなんていらない。誰が撮っても同じ」と言う。聞いていて気分が悪くなった。自嘲なのか、本心なのか。どちらでもいいけど。

 AI は人間よりも早く、たくさんのことを学習できると思う。詳しくないけれど、電卓の計算能力ですら私よりも上なのだから、AI であればもっともっとすごいのだろうと予想はつく。
 いろんな人の写真を、文章を詰め込んで、それを解析し、ベストなものをつくり上げる。技術や文法や、ありとあらゆる情報を有効活用するのだろう。
 人間の場合。
 いろんな作家の作品を見たり読んだり、技術についての解説を見たり読んだりして、得たものをミックスしたり、自分なりの解釈をしたりして、やってみる。真似をしてみる。あれはどんなふうにできていたのか、どうしたらああなるのか。考えながら手を動かすうち、「ここをこうしたら、もっとよくなるんじゃないか」「こんなふうにしたら、誰もやってないものができ上がるんじゃないか」と思いつく。
 そうしてやって、やってしているうちに、自分の作品なり、作風なり、やり方なりが形になってくる。
 自分で考えることを抜きにして、表現することはあり得ない。そして、そこにはその人のこれまでが反映される。見てきたもの、聞いてきたもの、感じてきたこと。ひとりずつ経験が異なるから、同じものは生まれない。

 AI も経験を積むのだろうか。ただ情報を詰め込むだけでなく、得た情報をもとにつくり、できたものを考察し、手直ししたりして、どんどん自らを変化させていくのだろうか。
 それでも、それ以外の経験があるという点で、人とAI は異なる。「感じる」「考える」が人間だけのものであるうちは、まだ表現の世界において人間はAI に先んじていられるのではないか。
 ただし、たとえば物撮りやセールスライティングのように、決まったフォーマットがあるものについては、AI の方が向いているかもしれない。クラウドソーシングで「初心者OK」と付いているような、誰がやっても同じという案件は、AI と競わないといけなくなるのではないか。そしてきっと仕事を奪われる。
「『いい写真ですね』って言う人いるけど、写真の何をわかってんだって思う」と、最後に友だちは吐き出した。
 それはいつも「ほんと、いい写真撮るよなぁ」と言う私へ当てつけだったのか。でも私には私の「いい写真」の定義があり、その定義に友だちの写真は合致している。だから「いい写真」だと言うし、本当に大好きだ。だからAI には撮れない写真を撮ってるよ、と心の中で言う。
 それはともかく、自分はどうする? 私もAI に書けない分野で書かなければ、近いうちに仕事として書くことはなくなるだろう。AI には表現できないものをつくらなくては。お先真っ暗で、気分が悪くなってくる。



ネコ4匹のQOL向上に使用しますので、よろしくお願いしまーす