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肩書きではないカメラマン

 写真について、ここしばらく考えていた。
 自分の撮る写真についてというより、写真を撮ることについて。写真を通して表現することについて考えてたというか。

 友人のカメラマンがいる。本人がどう思ってるのかは知らない。はたから見て勝手に考えたことにすぎない。
 そこに、書きたいのに書けない、書いても評価されない、必要とされない自分を重ね合わせて思考を巡らせた。
 そんなこんなの話である。

 友人が撮る写真はとてもいい。私は友人の写真が大好きだ。橋口穣治(の「視線」)以外で一番好きなカメラマンかもしれない。
 建築写真を撮っていたと聞いているが、それ以外にも撮っていたらしい。以前の仕事で撮影した写真は見たことがない。最近のものは見せてもらったけれど。

 友人の写真は、音が聞こえる。海の写真からは波の音が、人の写真からは話し声が、料理の写真からはお肉の焼ける音やカトラリーのカチャカチャ鳴る音が聞こえてくる。
 一枚の、というより画面の中の静止画にすぎないのに、音が聞こえ、動きが見えるのだ。

 リアルということではない。迫力があるとか、臨場感があるとかいうことでもない。
 一枚の写真の中に時間と空間があるような、2次元なのに4次元のような。
 写真に写る人・もの・風景の、切り取られる前と後が感じられる。向こうから歩いてきて、「よっこいしょ」といすに座り、お客さんと談笑してる様子が見える。あるいは、こちらに背を向け海に向かう人の、見えるはずのない顔が見える。目を細め、遠くに視線をやり、海の先に何かを思い出してる。
 そう、静止画なのに物語を感じるのだ。映像でもないのに、動きや音、声、感情までもがそこに写っている。

 友人がごはんを食べに行き、そのお店の人の写真を撮る。そのやりとりが聞こえてくる。「お母さん、写真撮らせて」「いやだ、恥ずかしいもん」「お母さん、かわいい」「もう、顔隠しちゃう」「それもかわいい」
 ふたりの笑い声が聞こえてくる。
 もちろん、全部私の妄想。一枚の写真からかき立てられた私の想像力がつくり出した幻。

 私が思ういい写真とは、そういう写真だ。一枚の中に物語があるもの。見るだけで想像がふくらむもの。一枚の中に何百枚もの写真を感じられるもの。
 友人はそういう写真を撮る。

 表現者にとっては「表現すること」が大切。カメラマンであれば、写真を撮ること。物書きなら、文章を書くこと。
 でも「表現すること」と同じくらい、どの場で表現するのか、なにを表現するのかも大切だと思う。
 私は文章を書くことを生業としたいけれど、書いてお金がもらえたらそれでいいわけではない。「職業:ライター」を名乗りたいのでもない。SEOに強いと評価され、Webライターの肩書きが手に入ったとしても、それは私がしたい表現ではない。
 同じように、友人ほどの腕前のカメラマンがいない場所で、物撮り案件を総ざらえし、毎月100万稼いでも満足感は得られないのではないか。評価される、必要とされることはうれしいだろうけれど、それは「職業:カメラマン」であって表現者ではないのではないだろうか。

 友人はとてもいい写真を撮る。私は友人の写真が大好きだ。
 ファンとして、友人には表現し続けてほしい。ただ写真を撮るのではなく。職業はなんであれ、肩書きがなんであれ。



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