死について考える Part.20

そもそもなぜ死があるのか。

人間死ななくてもいいのではないだろうか。もちろん人口増加の問題は出てくるが、死ななければ、頭の良い人もずっと残って研究を続けられるわけだから、今頃違う惑星に移住もできていそうだが。そういう問題はいいとして、なぜ死んでしまうのか。人間に限らず、生き物はみんなそう。死なないように体を変化させることはできなかったのか。

今でこそ、長寿大国日本であるが、戦前はかなり寿命が短かったらしい。なぜ、寿命が伸びたのか。死ぬことが遠のいたわけだ。環境のおかげもあるだろう。住みやすくなったとか戦争がなくなったとか。つまり、死なないためには平和を維持し続けることなのではないか。そして、他の天敵を作らないことではないか。人間にはもうそれがほとんどできている。だからこそ、寿命はなくなってもいいはず。ただ、遺伝子的にそれはまだ突然変異できてないから無理なのだろうか。だとすれば、この世界を維持すれば、人間の寿命はなくなるということになる。

死がなくなった世界で、人間は何を思うのか。人を失う悲しみからは解放されるのか。事故や病気は回避できないため、悲しみは少なくともあり得るが、その機会はグンと減るだろう。もしかしたら、人工臓器や何でも効くワクチンができるかもしれない。その場合は、本当に悲しみはなくなる。人が死ぬ時の悲しみだけ。

今しばらく時間をおいて続きを書いていく。

さて、死がなくなった世界という話が出てきたが、死がなくなれば、努力することもなくなりそうな気もする。死がなくなったことで、皆が同じ条件で、皆が同じことを同じだけやれる。死がなくなったことで、練習すれば誰でもできるが実現できてしまう。時間が有限だったからこそ、優劣があった。時間が無限になれば、すべてのことを、時間をかけて行うことができる。すべてのことをやり終えた場合、何が待っているのか。虚無か。何もやることがなくなる。宇宙の果てを目指し始めるか。宇宙を飛び出すことができたら、そこに何があるかはわからないが、そういう未知への冒険をするであろう。もしくは、危険へチャレンジし、どこまでいけるかを試すようになるかもしれない。太陽のどこまで生身で近づけるかみたいな頭のおかしいことを実行していくに違いない。

努力がなくなると書いたが、努力はなくならないかもしれない。練習を続けるという努力は必要だ。続けた者だけが得られる能力ばかりになる。むしろ、天才やひらめきよりも努力が勝つ時代の到来だ。努力をして時間をかけて学べばすべてが手に入る。死がなくなるということは努力が輝くことかもしれない。

いま、人生100年の時代。以前よりも実は努力が大切なのかもしれない。

いや、逆に考えてみよう。時間をかければ、全員が同じステージにあがれるとしたら、むしろ、天才のほうがいいのではないだろうか。全員が同じ能力を持った時、天才という能力が頭1つ抜き出るわけだ。ひらめきが平凡な平均なものから抜きん出るわけだ。

むしろ、人生100年の時代、以前よりも個性が大切なのかもしれない。

実際、死は来るので、本当のところはわからないし、これから長生きしていく世代の人が解明していくことだろう。今、死がある時代に、何をすべきなのか。死があるからこそ、時間があり、時間は有限であり、時間を大切にしなければならない。

そう、死があるからこそ、時間は大切なのだ。

いま、停滞している私は時間を無駄にしているのだ。死を早送りしているのだ。死を近づかせているのだ。何と無様なことだろう。

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