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死について考える【26日目】

えー、死についてもう何を書いたらいいのかわからなくなってきた26日目です。

懺悔と快楽の日々を過ごしていますね。特に休日は。

何だか日記みたいになってきたこの考察。日記みたいになっているからなかなか効果が現れないのではないのだろうか、と。

では、改めて死について考えていこうと思う。自己分析や最近の日常はサブ的な感じで書けていくのが良い。

戦時について、ふと思ったので、そこに触れていこう。戦時中は若い人でも戦場へ行って、若く亡くなっていた人も多いはず。若く死して何を感じるか。そもそも日本のためにという忠義があって、誇りを持って死ねるのだ。私はあまり好まないが、人によっては、目標があり、それに向かって突き進んでいくことができたのだから、ある意味幸せだったのだろう。しかし、大半の人はそうは感じないだろう。戦争なぞなくなって早く母国へ帰りたいと、そう願っていただろう。そういう人にとっては死はかなり恐怖である。日本のためにという表面はあるものの、本心はそうは思っていないのだから。本心で思っている人は恐怖よりも勝とうという気持ちの方が強かったのか。

私がその立場に置かれたら、向上もクソもないと思う。将来のためなどというちんけな考えは持たないだろう。お国のため?何を言っているのか。勝てば、それはそれは良いことだろう。しかし、人ひとり頑張ったところでと思ってしまう。まぁ、これは私の性格だ。チームワークはあまり得意ではない。自分さえ良ければと考えてしまう。

しかし、まぁ、諦めて戦場へ赴くと思う。生きて帰ってやるという心は持ちつ。死ぬなら痛みを感じず死にたいとも思うから、頭1つ出して敵を撃つかもしれない。でも、実際にその場にいたら、恐怖で動けないだろう、正直なところ。

そう考えると、今の平和な世の中で、こうやって死を考えるのは何をしているのかと錯覚してしまうな。でも、そういった死が目の前にあるかもしれないという考えで、でも、恐怖を抱かないこの日常が腐りきっているのかもしれない。目の前にあるかもだからか。戦場と違って確実性が低いからか。あまりにも平和ボケしている。

だからといって、戦場に行って命の危険を感じて、生を感じるのもどうかと思う。生を実感するのは別に戦場でなくてもできるはずだ。しかし、そういう機会というのは本当に少ないし、自分で考え尽くしてもなかなか実感が湧きにくい。

死を目の前にした時、戦場で、ただただ任務を果たしてしまうだろう。帰国したいと考えつつも。では、今、死を目の前にした時、果たす任務とは何だろうか。任務などあるのだろうか。いや、ない。人生における任務とは何なのか。何を成し遂げるために生きているのか。ただただ、堕落した生活を送るために生きているのか。人間、向上心を失うとここまで落ちぶれるものなのか。大人になるとはこういうことなのか。つまらない大人というのは私のような人を言うのではないだろうか。

つまらない大人にはなりたくないと思っていたが、それが来てしまった、この現実。過去に戻れるものならば戻りたいと思うのであれば、今すぐに変えねばならないのだ。

再三言っているが、動け、と。

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