死について考える【48日目】
死ぬほど辛いことなんて、経験したことあるかと問われたら、経験したことあるとも言えるしないとも言える。主観ではあるし、客観ではないから。世の中には自分より死ぬほど辛い目に合っている人は数多く存在する。その人と比べれば自分の経験したことなど、辛くとも何ともないのだ。ただ、自分の中で死ぬほど辛いと考えているだけで。でも、世界は自分が、自分の脳が創り出しているものであって、それならば、自分が世界の中心なわけで、自分が死ぬほど辛いと考えているのであれば、それは死ぬほど辛い経験になるのではないかと。
しかし、最近になって自分中心の、自己中心的な考えは身を滅ぼすと知り、他者のために生きること、思いやりの心を持つこと、他者へ幸せを配ることをしていかないといけないと切に感じている。
この哲学的な考えと、一般的な幸福論、どちらを信じ、どちらに沿って生きていくのが適当なのか、答えはないけれど、推奨するのであれば、幸福論であろう。自己中心的な生き方で損を被ったこともあるからだ、思い返せば。そういうことならば、他者を思いやって過ごし、自己へ還元できるような世界を創り上げた方が、みながハッピーになれるのだ。しかし、時には自己中心的な生き方も必要だと感じる。それは他者に合わせるだけでなく、自分の軸を持つという意味での。つまり、自己中心的というよりは、他者をも考え、さらに、自分の芯を持ち、何事にも真摯に向き合うといったことだろう。
最近、肩が非常に痛い。コロナの影響で、家でリモートワークをしているせいだろう。死ぬほど辛い、肩が。しんどすぎるのだ。こうやって簡単に死を考える。でもこの死は、ただの逃げであり、また、死を楽なものと捉えている。死してしまえば、この痛みがなくなるという考えから基づいたものであり、その先に待ち受けている、幸福をすべて脳から忘れ去っているのだ。
そういう将来のことを考えれば、自然と死にたくないと思うはずだ。死にたくないと思うのは、将来に希望を持っているからだ。将来を具体的に想像し、そこへ躍進できるからだ。そういうことを、おそらく本能のどこかでは考えているのだろうけれど、それは奥深くにあるため、自覚するに至らない。それを改めて顕著にし、改善する機会を得るには、それを上手に考えて行く必要があるのだ。
私はあまりの忙しさに、いや、忙しくはないが、あまりの怠けにと言ったほうが適当だろうこの堕落した生活に、そういった機会をすべてゴミ箱へ流し込んでしまっているのだ。それはあまりにぞんざいな扱いで、運命から見放されても仕方ないと言わざるを得ない。それを解決するには、瞑想が良いのだが。どうもいかんせん、動かないと落ち着かない性格で、何も考えないということがとてもつらい。何も考えないことで、頭がスッキリし、さらに何かを考えられるかもしれないのに、それを体験したことがないから、だからこそ、そういったことを避けてきている。実に残念極まりない。
さぁ、肩が徐々に痛みを増してきた故、本日はこのくらいにしておきましょうかね。