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死について考える【61日目】

ナスカの地上絵。人間が描いたものであろうが、宇宙人が描いた説などもある。ミステリーサークルやモアイ像。世界には未知のものが多く存在する。

しかし、どれも人間がやっていてもおかしくはないだろうと思う。目的もなくそんなものを作るのかと言われたら、目的もなく作ることなんてないだろうと。まるで矛盾しているようだが、遊びに目的はありますかと問いたい。それが遊びであったら、それが単なるいたずらだったら、目的はあるかもしれないが、ある意味ないのだ。

ここでいう目的は、生活に必要なことなのかということであるが、ある意味というのは、生活には必要ないが、それ以外の目的があってということだ。

つまり、昔の人が、例えば、未来の人を驚かせるためだけに作ったとしたら。そう考えるのが適当だろう。

現代でも、そういう人は少なからずいる。今の時代に促していないものを作り上げ、適当に土に埋め、未来の人がこれを見たらどう思うだろうかと想像する。そういう、いたずらのようなこと。目的は未来の人を驚かせるということにあり、それは現代において必要不可欠なことではない。遊びだ。

昔の人も、こういう遊び心をもって、そういったモノを作ってきたのではないだろうか。正確な計算が必要といえど、頭のいい人がそういういたずらを思いつくこともあるわけだ。むしろ、頭のいい人こそ、未来をもっと面白くしてやろうと考えるわけだ。

さて、私は現代において、何かそういったものが残せるのだろうかと少し考えたわけだ。なぜなら、死の先に待ち受けているのは未来だから。未来に何かを託すわけだ。それが功績のあるものであれば、なおよろしいが、そういったものはノーベル賞レベルまでいかないと残せないのではないかと以前考えた。そうでなくとも、人々の役に立てば、残せるものであるわけだが、そういうものを思い浮かべる努力も必要だが、また、別の視点から残せないかと考えたわけだ。

それが遊び心のある、何とも戯けたような作品であろうと。現代ではそれが電子の世界によくあるが、固体として残すことも可能であって、人によってはそれはアートであって、アートを作るのもまた一興ではないかと。

そういう分野には足を踏み入れていなかった。なぜなら、そういう世界もまた、ノーベル賞のレベルが必要とされる世界だからだ。努力だけでは生きていけず、才能が最後の鍵を握る。

そこまで伸びたいのかと言われるとそういうわけでもない。ナスカの地上絵のようなくだらない、でも高度だ、しかし、そういうレベルのものを何か残せば、それは未来で残されるものになるのではないだろうかと。未来に何かを残すこと前提に話している。死してもなお自分を存在させる意義はあるのか疑問だが、やってみるのも面白いではないか。

死んでしまっては未来などどうでもいいだろうが。

そういう考えを持ち続けると、老人になっても環境を考えない、ただの老害になり得るだろう。そうはなりたくないから、そういう考えを今のうちに捨てておきたいわけだ。それを割り切るために、未来へ希望を持つことが今の自分には必要だと考える。

今の自分は未来へ希望を持てているのだろうか。自分が生きているうちは希望を持っている。その先だ。もし生き返らせることができる未来ができたら。それを想像すれば、未来へ何か残すことが有意義だとわかる。転生よりもずっと。

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