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死について考える【88日目】

忙しい時は物事を、時間を忘れることができるが、それが必ずしも良いものとは限らない。熱中できるものという話を前回したわけだが、熱中できるものに対して時間を費やし、そして、それによって時間があっという間に過ぎようとも、時間がもったいないとは感じないだろう。むしろ、有意義な時間を過ごせたと感じるはずだ。死へのカウントダウンが近づこうとも、こういった有意義な時間を得られれば、納得できるものだ。

しかし、熱中してやれることではない場合、嫌な仕事だが、早く終わらせるために集中してやるなど、そういった場合は、時間がもったいないとも感じるし、有意義な時間とは感じないし、ある意味後悔となり得る。

仕事とはいえ、お金を稼ぐためとはいえ、つまらないことをやるのは嫌なものだ。仕方ないの言葉で片付けることもできるかもしれないが、仕方ないと言わないように仕事をするのが良き仕事といえよう。

特に単調作業や学びのないものほど無駄なものはない。いくばかりか役に立つこともあるが。例えば、その作業によって心が浄化されるなどだ。つまり、瞑想の一部として扱う。瞑想しているときは、何も作業しないのと同じで、単調作業はある意味、慣れですべてを解決でき、それによって、瞑想状態に入ることもできるだろう。作業に慣れることで、作業をしている感覚さえなくなり、思想にふけることができる。もしくは、自分の手の動きや呼吸にまで気を遣うことができ、それは瞑想と同等といっても過言ではない状態になる。手を動かしている分、瞑想ほどの効果はないかもしれないが、考えてやるよりはいっそうそうであろう。

そういった意味では、時には単調作業もいいものかもしれない。しかし、それはあくまで、時にはということであって、毎日やるには人生の無駄遣いと言っても過言ではない。

しかし、人生というのは壮大な暇つぶしなわけであって、そういった単調な作業によって暇がつぶせるのならば、万々歳ということもありうる。なかなか難しいとは思うが、人それぞれといったところか。

私としては、そういう単調作業は嫌だ。それだけでなく、例えば、保守のような、メンテナンスのような、改修作業もあまり好き好まない。人によってはそこへ価値を見出す人もいるから何とも言えぬが、最初からゴールまで続く新しい道を進む方がより楽しい。そこで、巻き戻しを発生させるなど言語道断。そういったことを促してくる人なぞ、最悪な他ない。

死への時間は限られているのだから、どれだけ無駄なく過ごせるかも大切であろうと私は思うだ。それには無駄をはぶきたいわけで、それへの非協力者は恨むべきものにすぎない。協力者を探すべく、多くの出会いをしたいと常々思う次第だ。

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