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司馬遼太郎「項羽と劉邦 下巻」読書感想文

涙ものである。
ラストは “ 四面楚歌 ” となっていて、そのあと項羽が討たれて終わるが、彼の清々しさには涙がでる。

悲しい物語だ。
そうではないのか?

項羽のような、真っ直ぐな青年が追い込まれるなんて。
多少は問題はあったにしても、質実剛健で、能力だってある青年が敗れるなんて。

で、劉邦のような、薄汚ない中年男に多勢がなびくなんて。
弱くて臆病で、逃げ足だけは早くて、食い意地だけはあって、理念のかけらもなく、ゲスで下品で無能すぎる中年男が、・・・司馬遼太郎が徹底してそう書いているのだけど、ともかく、その劉邦が勝利するなんて。

一方では、希望も湧く物語でもある。
なんの根拠もない希望が。

クズだってなにかできるのではないか、という安心感に近い希望が持てる読書でもあった。


気になる余談

受刑者として、気になる余談は多い。

あるとき暴れる兵がいて、人を傷つけた。
檻の中に入れても暴れていたが、いつの間にか静かで穏やかになった。

食事の塩の量を次第に減らしただけだという。
そうしてから、罪を咎めるのだ。

だからなのか!
ここのメシは、どうも味付けが薄い!
塩気が足りん!

そうと知ったら食べるもの癪だけど、もう2000年も前からの手法だったんだと納得もできた。

登場人物が、治世の要点を話す場面も興味深い。
為政者は、ただ2点だけ見てればいいという。

市場と獄舎だ。
市場には人が多くいなくてはいけない。
獄舎には人が多くいてはいけない。

そうだったのか。
法務省にはいろいろ文句もあるけど、それはそれで2000年も前から研究され尽くされているシステムだったんだ、と深く納得できた。

単行本|1980年発刊|289ページ|新潮社

初出:『小説新潮』連載 1977年~1979年

登場人物 - 漢軍・劉邦陣営

※ 筆者註 ・・・ 以下、すべて司馬遼太郎テイスト、いわゆる “ 司馬史観 ” に沿っています。人名も地名もたくさん出てくるのですが省いてます。

韓信(かんしん)

別動隊として北方に軍を進める。
項羽軍と同盟を結んだ国と戦う。
勝利を重ね、版図を拡大。
項羽、劉邦に次ぐ、第3勢力となる。

とはいっても、韓信は、自分が考えた作戦を実行したいという思いが先行いているのみ。
栄達欲もない、権力欲だってない、政治的野心もない。

韓信は、元にいた項羽軍では、臆病者として有名だった。
が、臆病を楽しむところがある。

臆病をたねにして、恐怖から免れるようにして、作戦を立てることだけに熱中していた、と司馬遼太郎は書く。

項羽から同盟の申し出を受けるが、自身を重用した劉邦への恩を理由に断るという律儀さも見せる。

垓下の戦いには、30万の兵を率いて参戦。
漢軍の勝利の一旦を担う。

史実としては、このあと漢帝国が成立したあと、謀反の疑いをかけられ、無実の刑死をする。

蒯通(かいとう)

放浪の弁士。
自身の弁舌で天下をとるのを望んでいる。
韓信の顧問に就く。

のちに “ 済 ” の王宮を得た韓信には、漢軍からの独立を勧めるが、気持ちを変えるに至らなかった。

謀反を勧めたと咎められるのを恐れて、身を守るために発狂したふりをして王宮から姿を消す。

後年になり、韓信が刑死したときに、己の才のなさを嘆く。

長良(ちょうりょう)

劉邦の軍師。
“ 広武山の和睦 ” を反故にして、項羽を追撃することを献策する。

このあと漢帝国が成立したあとは、地方の候(小さな王)に
封じられる。
が、2代目が不敬罪に問われて、封地は没収される。

候公(こうこう)

放浪の弁士。
癖の強い性格。
劉邦の客分となってから、和睦を献策する。

“ 広武山の和睦 ” の交渉を任されて成功させるが、劉邦に警戒されたのを察して姿を消す。

彭越(ほうえつ)

野盗の親分。
項羽の論功行賞に恨みを持ち反目。
劉邦と同盟を結び、中部でゲリラ戦を展開する。

野盗だけにゲリラ戦はうまかった。
小さく戦い、小さく勝つ。
強い敵がくると隠れて姿を見せない。

逃げる劉邦を追う項羽軍の足を引っ張る。
食料の補給も絶ち “ 広武山の和睦 ” の遠因をつくる。

このあと漢帝国が成立したあと、謀反の疑いをかけられ刑死をする。

ネタバレあらすじ

劉邦の戦い

劉邦は負けるのに忙しかった。
項羽軍に城郭を包囲されそうになると逃げた。
従者と2人きりで徒歩である。

別の城郭に入ると「ここにいるぞ!」と大いに宣伝させた。
自らが囮になるのを自覚していた。

「あの、ネズミが!」と項羽は軍を率いて急行する。
作戦ではなくて性格からだった。

項羽が天下に誇示するのは勇であった。
勝つことに、病的にこだわっていたのだ。

項羽が向かってきているという知らせを受けた劉邦は「来たか!」とメシを食べながら笑う。

しかし、項羽が怖くて怖くてたまらない。
すぐに箸を置いて、裏門から次の城郭へと逃げ出した。

そんなことばかり繰り返していた。
負け癖のついた犬のようなものであった。

黄河の渡河戦

北方では、韓信軍が別動隊として展開していた。
劉邦の外側で円を描くようにして、転戦していた。

「異彩だ」と人々は言った。
弱い漢軍のなかで、韓信軍だけが例外的に連勝していたからだった。

韓信軍が“ 魏 ” を攻めようとしていた。
項羽と手を結ぼうとしているからだった。
河の向こうには、敵将が陣営を構えていた。

韓信軍は、河に船を並べた。
今にも渡ろうとする気勢を示す。

一方の別地点では、近辺の農家から木製の瓶を買い集めて、縄でつないで浮き橋を工作する。
密かに騎馬隊が渡河した。

騎馬隊は、対峙している河辺の軍は無視して騎走。
首都を落とした

韓信は敵将を殺さなかった。
兵の恨みを買わずに、彼らをすぐさま自軍に取り込む。
韓信軍は、10万まで膨らんだ。

背水の陣で嘲笑を誘う

劉邦の命で、韓信軍は “ 趙 ” も攻める。
趙は、項羽と同盟を結んだのだ。

韓信軍の兵は、2万となっている。
本隊の劉邦軍に、大部分を送っていたからだった。

対して趙軍は20万。
城郭に集結している。

韓信軍は、崖に囲まれた狭道を通っているという。
これを奇襲する案が、将軍から出された。
趙の王はいう。

「兵法書には、兵数が敵の10倍なら包囲して戦う、2倍だったら進んで戦うと書いてある。大軍が奇襲などしたら笑われてしまう」

実は韓信は、あえて狭道を通ってみたのだった。
ここでの奇襲がないことで、敵の出方に見当がついた。
趙軍は、兵法通りの動きをするに違いない。

趙軍の城郭の前には、平原があり、河が流れている。
韓信は、そこに背水の陣を敷いたのだ。
兵法では、背水の陣は禁じられている。

韓信の読み通りだった。
趙軍は兵法通りに動いた。

城郭から大挙出撃してきて、背水の陣の小勢に、平原での包囲戦をしてきた。

そのときに、迂回して身を潜めていた韓信軍の2千の別動隊が、空になった城郭に突入。
1人1人が旗を持っていた。
それを城壁の上に並べた。

平原にいた20万の大軍に大恐慌がおこった。
兵法では、敵に背後をとられるのはいけないとなっている。
挟み撃ちになった、これでは負けると、敵は総崩れになる。

趙軍は、背水の陣の小勢を目にして「兵法を知らない」と余裕で出てきたのだ。

韓信が狙ったのは、敵の “ 嘲笑 ” だった。

劉邦の戦略

劉邦は、また城郭から逃げだしていた。
韓信の軍営に向かっていた。
すでに、韓信は大きな勢力となっている。

劉邦との立場が逆転したようだった。
韓信は独立するのではないか。

小舟で黄河を渡るときは、たった1人の同行者と、その話になっていた。

劉邦には猜疑心も湧いてくる。
もし、劉邦がその立場だったら、迷わず独立するからだ。

風が小船の帆を鳴らした。

「人間はな」
「・・・」
「こういうときはな」
「・・・」

劉邦は言葉に詰まった。
なにを言っていいのかわからない。

「歌だ!」
「え・・・」
「歌はこういうときのためにあるのだ!うたえ!」
「はい」

湖の漁夫の歌が、小舟でうたわれたのだった。
風のないときは風をおこせと、いう歌だった。

韓信の軍営についた劉邦は、一世一代の芸を見せた。
その軍を強奪したのだ。
2千の兵だけを韓信に渡して、次の戦局に向かわせたのだ。

兵法となった半渡りの作戦

独立を宣言した “ 斉 ” を韓信軍は攻めに向かった。
進軍しながら、兵は2万に増えていた。

が、斉には、楚からの援軍が到着した。
率いるのは、項羽の片腕の勇将だ。

20万の兵である。
韓信軍は、その勇将と河を挟んで対峙していた。

このときには、上流には土嚢を投げ入れて、水流は半分にしてあった。
韓信軍は渡河して、少し戦ってから、すぐに敗走した。

「韓信の臆病は今にはじまったことではない!追え!」

勇将は、先頭になって追撃してきた。
敵の先頭が渡河したとき、上流の土嚢は崩された。

濁流が押し寄せて、混乱がおき、ほとんどの敵兵はながれ、先頭にいた勇将と一団は孤立した。

矢が射られて、全員が討ち取られた。
河の向こうにいる連合軍は、勇将の最後を眺めることしかできない。

この戦いで連合軍は崩壊した。

以降、この作戦は “ 半渡り ” という兵法のひとつとなる。

劉邦の作戦

やがて城郭は、楚軍に落ちはじめていた。
平野には楚軍が満ちている。

野戦となると、弱い漢軍は確実に負けてしまう。
そんなときに、劉邦はひとつの案を考えた。

広武山に陣地を構築して、立てこもって防戦する作戦だ。
「城郭の壁が食えるはずない」と劉邦がいうように、広武山には旧秦帝国からの穀物倉庫群があった。

いってみれば、米びつを抱えて、米びつを守る防衛戦をするのだ。

食料確保の感覚だけは、劉邦は誰よりも優れていた。
軍師は感心した。

「めずらしく、よい案を思いつかれましたな」
「おれは、本来はそういう男なのだ」

軍師は大笑いしたが、さすがに劉邦はいい顔はしなかった。

広武山の攻防戦

広武山では、漢軍の防御工事がはじまった。
杭を打ち、柵を設け、空堀をめぐらせた。

やってきた項羽軍も、向かい合って陣地を構築したが、巨大な米びつがあるかないかの違いがあった。

項羽は、劉邦よりも馬鹿であるという証拠はひとつもないが、ただ1点、メシというのは従者が持ってくるものだと思い込んでいた。

食料については、その部署の誰かがやっていたので、頭を悩ませることがなかったのだ。

広武山の和睦

広武山の漢軍は、張り付いたまま動かない。
楚軍は攻めあぐねて、1年が過ぎて、和睦が成立した。

漢軍よりも、圧倒的な戦闘力がある楚軍だったが、食料の補給が滞ったのだ。

この和睦により、漢と楚で、東西に分割統治すると決まる。
10万の楚軍は退却をはじめた。

このときだった。
劉邦には「追撃すべき」と献策されたのだ。

いや、説得された。
和睦したばかりなのに攻めろという。

ここ4年戦っている中で、今だけ戦力が均衡している。
むしろ髪の毛1本分だけ、漢軍が上回っている。
このまま、楚軍を戻してしまえば戦力は増してしまう。

今を逃したら、今後は2度と勝てる見込みがなくなる。
劉邦は、山から軍を進めた。

「なんというやつだ!」

このときの項羽の怒りは、周りにいた数千の親衛隊員が、いっせいに地にひれ伏したほどだったという。

楚軍は半転して攻めてくる。
が、漢軍は野戦は避けて退くばかりだった。

遠くを目指して退却する軍というのは、防衛力は弱い。
繰り返し最後尾を攻撃していれば、いずれは壊滅できるのだった。

紀元前202年、垓下の戦い

楚軍は行軍を続けた。
根拠地である楚までは400キロ、10日はかかる。

「いそげ!着いたらたくさん食べろ!」

項羽は、その一言で、この事態を片付けていた。
士気は下がり、兵の脱走にもつながった。

その日、項羽は行軍を止めた。
陣地を築きはじめる。
垓下という荒地だった。

ここから楚に援軍の使いを何人も出したのだが、到着することですら容易ではない。
多くが、漢軍に加わりはじめていたのだ。

韓信軍も到着した。
大軍となった漢軍が、楚軍を取り囲んだ。

30万対10万である。
いや、すでに10万もいなかった。

それでも、項羽は勝つつもりでいた。
陣地を飛び出して、漢軍を追い散らした。

四面楚歌からの騎走

「あれは楚歌ではないか?」

ある夜、項羽はいう。
歌は自然に湧きおこったのだろう。

どういう人が歌っていたのかは、わからない。
風に乗ってきた音律を、項羽が聞きまちがえたのかもしれない。

これほどの楚人が漢についたのか。
ここまでか。
そう察した項羽は、酒宴をする。

「飲みすぎるなよ、飲んだら、めいめいが落ちよ、血路を開いて落ちよ」

項羽は、酒をつぐ者と話す。

「おまえはいつも仕えてくれた。最初の挙兵からいたな。天下をとれば、おまえも高官にするつもりだったのに。なんの酬いもしてやることができなくなってしまった」

項羽は、はじめて泣いた。

酒宴が終わる。
同行していた恋人は斬った。

項羽の一団は、囲みを突破する。
明るくなってから集まって数えてみると800騎いた。
漢軍も、逃げたのが項羽だと気がついて追ってきた。

途中で、間違った道を農民に教えられもした。
戦いながら騎走して楚に向かう。

やがて、一団は100騎に。
長江のほとりについたときは28騎だった。
項羽は従う者に振り返った。

「わしは兵を挙げて以来、こんにちまで70余戦を戦い、ことごとく勝った。そのわしが、こんにちの窮地に立ち入ったのは天がわしを滅ぼそうとしているからである」

劉邦に滅ぼされるのではない、と言いたかったのだ。
すぐに追討軍がやってきた。

ラスト2ページ

項羽は戦って倒れた。
すると、信じがたいことがおきた。

動かなくなった項羽の死体に、無数の漢兵が爪を立てて群がったのだ。
劉邦は、項羽の首に懸賞金と領地をかけていたのだった。

一片でも奪おうとして争い、ついには武器をとって邪魔者を追い払おうとした。
死者がでるほどの奪い合いになる。

収まったときには、項羽の死体は5つにちぎれていた。
それを5人の者が持っていた。
ほか何人かも、一掴みほどの一片を持っていた。

この戦場の掃除は、地元の者がした。
項羽の証となるものは、髪ひとすじも落ちていなかった。

懸賞金と領地は、本来は1人を対象としていた。
が、劉邦は細かいことを詮索することなく、それらを5等分して与えた。

一掴みほどの一片を持った者にも、別に懸賞金を与えた。
いかにも劉邦らしかった。

史記』の著者である司馬遷もこの地に訪れたと思われる。
項羽が死んでから、半世紀そこそこしか経ってないころだけに、人々の記憶も鮮やかだったろう。

人々から項羽の最後を聞き、さらには死体を引きちぎった5人についても聞き得たはずである。

彼は晩年になって『史記』を書くにあたって、5人の名前をさりげなく記して、そのことで人間の欲望という課題についての筆記を節約した。

さらには5人が栄達した職名も記すことで、漢楚の戦いという本質の一切れを象徴してみせたかのようであった。
このことは、劉邦の本質も象徴していないでもない。

懸賞金を与える劉邦の人相が、どういうものであったのかを、ほのかに窺うこともできる。

項羽の死は、紀元前202年である。
ときに、31歳であった。



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