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石川拓治「奇跡のリンゴ」読書感想文

無農薬でのリンゴ栽培がいかに難しいのか。
いや、絶対に不可能といわれていたのか。

誰も考えなくて、挑戦もしてない出来事だったのはよくわかった。

なぜ無農薬で栽培ができるのか、学術的な解説はほぼない。
そもそもが、解明されてない。

はっきりとわかっているのは、通常のリンゴの木の根は数メートルに対して、木村秋則(以下敬称略)のそれは20メートルはあること。

土の中の微生物が多いこと。
虫の生態系や雑草、病気や菌やカビが密接に絡まって無農薬のリンゴができること、とだけはわかっている。

木村秋則が、百姓というのは百のことをしなければいけないいうのもうなずける。
自然とは偉大だなとも驚きもあった。

気を使って書かれている本でもある。
無農薬栽培を解明することは、既存の農業の否定にもなる。
「無農薬なんてムリだ」という地元の農家も立場がない。

発刊された当時でも、無農薬のリンゴ栽培は不可能だという専門家も少なくなかったとある。

それでも “ 奇跡 ” で済ませないで、どうして栽培できるのか既存者に突きつけるのもおもしろいけど、この本に限ってはそれはいらない。

追い詰められた木村を救うようにして、リンゴが花を咲かせるところなど泣けてきて、何故なのかはどうでもよくなる。

リンゴの木の生命力を感じた読書だった。


木村秋則略歴

1949年生まれ。
青森の当地に農家の次男として生まれた。
農業は嫌いで、機械や電気に興味を持っていた。

中学のころには無線機をつくり、電柱からの電源をショートさせて集落を停電させる。
ギターのアンプも何台も制作する。

学校から真空管を持ち出してコンピューターをつくりかけるが、ビルほどの大きさになることに気がついて諦めている。

高校生なるとエンジンに興味を持つ。
エンジンを分解して、ピストンを磨いて性能を高めた。
簿記1級の資格も取得する。

高校卒業後は、いわゆる集団就職で上京。
川崎の会社に勤める。

配属されたのは原価管理課。
当時の最新鋭のIBMのコンピューターを使こなす。

効率人間だからという木村にとっては、仕事は楽しく順調だった。

が、1年半で実家に呼び戻される。
農業を継ぐはずだった兄が、自衛隊に入隊したからだった。

不本意なまま帰郷したが、兄の気が変わって除隊して戻ってきて、仕方ないので川崎の会社に戻ろうかと思ったが中学の同級生と結婚することになってと、身の振りかたが2転3転とする。

書き忘れていたが、もともとは “ 三上 ” という。
22歳で結婚して、婿養子となって “ 木村 ” となる。

木村家は兼業農業だったがリンゴ畑もあった。

単行本|2008年発刊|207ページ|幻冬舎

■副題■
「絶対不可能」を覆した農家木村秋則の記録

■監修■
NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」制作班

ネタバレあらすじ

トラクターが好きで農業に取り組んだ

農業が嫌いな効率人間ではあったが、田んぼも野菜もリンゴ畑も一生懸命にやった。
そうでなければ家を追い出されてしまう、と木村は笑う。

もうひとつ、農業に取り組んだ理由には、トラクターの魅力だった。
トラクターとは、エンジンがむき出しの乗り物なのだ。

我慢ができない木村は、近辺では見ることがない大型トラクターを買う。
イギリス製だ。

購入する際は、いかにも木村らしい。
カタログ請求の手紙を日本語で書いて送っても、向こうはわからないだろうし、かといって木村も英語がわからない。

ローマ字で『Torakuta no katarogu wo okutte kudasai』と書いて送った。
すると、ちゃんとイギリスからカタログが届いたという。

木村もすごいが、イギリスの会社もすごい。
ここが、いちばんに笑えた。

というよりも、この後からが笑えない。
極貧生活に陥り、このトラクターは売ることになる。

なぜ、極貧になったのか?

リンゴの無農薬栽培をはじめたからだった。

自然農法の本との出会い

ある冬の農閑期。
木村は本屋にいったとき、トラクターを使った大規模農業の本を見つけた。

棚のいちばん上にある。
棒で手前に寄せているうちに、隣にあった本も一緒に落としてしまった。

雨だったか雪だったかで、床の泥もついてしまう。
しかたがなく、その本も買ったのだった。

その本は、半年か1年ほどは、ただ置かれていた。
福岡正信という農家が書いた『自然農法』という題名だった

やるやらないは別として、農業のひとつとして興味はあるので読んでみたのが最初だった。

すると福岡正信は、ミカンの自然栽培に成功しているとある。

ただ愛媛県のミカン畑だ。
青森のリンゴ畑とは環境が異なる。

が、リンゴの農薬散布を減らせないか。
リンゴへの農薬散布は、年に13回ある。

効率人間を自認する木村は、それまではしっかりと散布していて、農協から表彰されるほどだった。

リンゴの葉が真っ白になるほど散布するのだが、その頃の農薬は、人間のことは考えてない。
散布中に倒れた、という話も度々あった。

木村の妻も農薬に過敏だった。
散布のあとには体調を崩して、1週間は寝込んでしまう。

なんとかしなければいけないなと、リンゴの代わりにトウモロコシの大規模農業にシフトしかけていたときだった。

最初は、試しに農薬の量を減らしてみただけだった。
すると、収穫量は減ったが、リンゴは出来たのだった。

木村は計算する。
収穫量は減っても、農薬の代金も減る。
収支は合う。

無農薬でも、やっていけるのではないのか。

たちまちリンゴは実をつけなくなった

無農薬でリンゴの栽培をしたいと義父に相談してみると「やってみろ」の一言だけだった。
以外すぎた。

義父には、ある経験があったのだった。
戦争中に南方の島に出征したときだ。

自給のために野菜も育てたが、農薬なしでも大きく育ったのだった。

以外には、なんの根拠もない。
が、その年から無農薬にしてみた。

とたんに虫が大量に発生。
葉っぱも病気で散った。

農薬というのはなんともすごいものかと、今さらながら木村は思い知る。

しかし、農薬を散布しようとは思わなかった。
枯れ山のようになってしまったリンゴ畑をみると、逆に闘志が湧いてきた木村だった。

リンゴの木は、秋に狂い咲きをした。
5月に咲かなければ、果実の元ができない。
すでに来年の収穫は見込めなくなってしまった。

収入は途絶えた。
それが5年間続く。

小学生の娘が3人に、義父の夫婦に、妻に木村の7人家族は、次第に困窮にあえぐ。

蓄えも尽きた。
郵便局に勤めていた義父の退職金も使い果たした。

イギリス製のトラクターも、リンゴを運ぶための2トントラックも売る。

乗用車も売ったので、スクラップ屋から原付バイクを3000円で買って、エンジンをレストアして乗ることにもなる。

見かねた親戚一同は「あんな婿は、さっさと追い出せ」と何度も言ってきた。

でも、義父は「やめろ」とは言わない。
1度だって言わなかった。

無農薬でリンゴだけはできなかった

無農薬でも稲は育ったし、野菜も収穫できた。

しかし、リンゴだけは実がつかない
リンゴの木とは、長年にわたって品種改良を繰り返して、人手に依存しているのだ。

3年目には、虫が大発生して、葉っぱも食べつくされた。
1日中、夫婦で、手で虫を摘み取った。

農薬代わりになるものが見つかれば乗り越えられると、いろいろ試してもみる。

牛乳や小麦を水に溶いて撒いてみたり、酢や醤油や焼酎を薄めて撒いてみたりした。
効果はまったくない。

4年目になっても諦めれない。
リンゴの木は葉を開こうとしているのだけど、虫に食われてしまう。

周りのリンゴ農家からも「いいかげん目を覚ませ」と忠告されて言い合いにもなる。

仕方ないことだった。
木村のリンゴ畑が、害虫や病気の発生源になりかねない。
いつしか、木村に味方する者はいなくなっていた。

5年目になると枯れる木も出てきた。
もう、打つ手もなくなってしまった。

いよいよ木村家の生活は困窮する

電話はとっくに通じなくなっている。
電気や水道の公共料金だって払えなくて金策に回る。

税金の滞納も続いていた。
差し押さえの赤紙を貼られもした。

水田も売る。
野菜を売って、米を買うようになる。

義父が山に入って虫をとって、釣りの餌として売った収入も生活費になった。

娘たちの服も、学用品もまともに買ってやれない。

無農薬に、誰よりも反対しているのは実家の両親だった。
息子のせいで、相手先の家が潰れそうになっているのだ。

そんなことはやめるように何度も説得したがきかない。
申し訳なさの表れとして絶縁されていた。

明け方に、木村はリンゴ畑にいこうとする。
すると玄関先に、米と味噌が置かれていた。

絶縁したといっても、母親が夜中にきて置いていったのだ。
暗い夜道を米の袋を持って歩く母親の気持ちを考えると、なんのために続けているのだろうと自問した。

その日。
リンゴ畑で虫を手で駆除しながら「もう、諦めたほうがいいのかな」という木村の弱音を妻は聞く。

妻は子供たちに、父親も貧乏を気にしているという意味でそれを話した。

すると、普段はおとなしい長女が色をなして怒った。

「そんなのいやだ。なんのために、わたしたちはこんな貧乏してるの!」

父親の夢は、いつしか娘の夢にもなっていた。

5年目になると枯れるリンゴの木も出てきた

木村のリンゴ畑だけが無残に広がっていた。
このままでは、800本が全滅する。

無農薬でリンゴはできないのか。
農薬を散布するしかないのか。
何百回、何千回と考えていた。

失敗したんだ。
一家を極貧にしただけだった。

1985年の7月31日。
ねぶた祭りの前日。
木村はロープを持って岩木山に登った。

無責任ではあるが、死のうと思ったら、とたんに気が楽になっていた。

誰にも見つからない場所へいこうと、さらに上った。
弘前市が明るく見えた。

頑丈そうな枝にロープを投げたときだった。
向こうにリンゴの木が見えた。

こんなところにリンゴの木があるわけない。
が、そのときには、木村にはリンゴの木に見えた。

駆け寄ってみると、ドングリの木だった。
枝ぶりがいい木だった。

今さらながらだ。
山の木は虫に食い尽くされない。
病気で全滅しない。

足元の土はフカフカしていた。
手にとってみると、温かくて柔らかい。
リンゴ畑の土は固くて冷たい。

このときから木村は気がついていく。
山を駆け下りた。

土は合作だ。
虫、菌、雑草が混じった合作だ。

病気も自然の1部だ。
自然との折り合いをつけてくれるのが虫たちだ。

農薬によって、リンゴの木も人間も、自然がわからなくなっていたのだ。

リンゴ畑には、大豆を植えて菌を増やすようにして、雑草も伸ばすようにした。
土が柔らかく温かく変わっていくのがわかった。

弘前市のキャバレーでアルバイトする

木村は、夜にアルバイトをする。
昼間は畑をやるから19時からだ。

それまでは、リンゴ農家としての妙なプライドがあってアルバイトなどできなかった。

が、リンゴのためだ。
何を言われてもいいと思えてきた。
が、アルバイトも簡単ではなかった。

最初は、原付バイクで30分ほどの弘前市にあるパチンコ屋で働いた。

が、パチンコもやったことなかったし、客からクレームにオロオロするばかり。
8ヶ月でクビになる。

次には、同じ弘前市にあるキャバレーの便所掃除のアルバイトをはじめた。

やがて、支配人から声をかけられてボーイとなる。
1日500円の貸衣装を着た。

キャバレーで働く者には、地元の人はいなかった。
そしてリンゴ農家は上客となる。
リンゴは高値で売れていた。

しかし、同じリンゴ農家の木村が貧乏をして、夜にアルバイトするのかキャバレーの皆が不思議がった。

ボロボロの服をきて、スクラップ屋からもらった原付バイクで通ってくるのだ。

木村は、おもしろおかしく話したと思われる。
ホステスからは「おとうさん」と呼ばれて、交代で弁当を作ってきてくれもした。

実直な性格であり、簿記1級の資格もあり、経理も任されるようになる。
ここで3年働く。

やめるきっかけとなったのは、ある日、客引きをしてヤクザとトラブルになったからだった。

神社の境内に連れ込まれて殴られて歯が折れた。
「リンゴの葉のために歯がなくなった」と木村は笑う。

もちろん事件になる。
相手からは謝罪もされたが、木村は訴えなかった。

そんなこともあり、店をやめる。
リンゴの木の葉勢もよくなってきていた。
もうそろそろだよ、とリンゴの木が伝えているようだった。

支配人は、50万の退職金を出してくれた。
久しぶりの大金だったが、滞納していた税金を払ったらほとんど残らなかった。

次の5月は、7個だけ花が咲いた。
秋には、2個のリンゴが収穫できたのだった。

「あいつ、とうとうやりやがった」

最初に、隣のリンゴ畑の竹谷が、その光景を目にした。

今まで雑草や虫のことで、さんざんと言い合いもしてもいたが「あいつ、とうとうやりやがった」と、木村にその光景を教えにいったのだ。

9年ぶりだった。
木村のリンゴの木々が、いっせいに花を咲かせていたのだ。

木村は見るのが怖いくらいだったが、夫婦で原付バイクに乗ってリンゴ畑へ向かう。

畑を埋め尽くして、リンゴの花が咲いていた。
それを目にして、木村は考えが変わる。

この花を咲かせたのは自分ではない。

自分がリンゴを作っていると、自分がリンゴを管理していると思っていた。
しかし自分ができることは、リンゴの手伝いしかない。

大きな転機になった瞬間だった。

家に帰ってからは、木村の両親に報告すると、もう2人とも知っていた。

朝のうちに見にいっていたのだ。
歩いて1時間かかるリンゴ畑だった。

「3年もすれば、あきらめるだろうと思っていた」と義父は笑う。
その両親も、花が咲いてからしばらくすると亡くなる。

無農薬のリンゴは見た目がわるかった

冷静に考えれば、リンゴが売れて収入を得て、はじめて成功したといえる。

収穫した無農薬のリンゴは見た目がわるかった。
小ぶりだし、大きさもまちまちだ。

スーパーで売られているリンゴと比べると、見た目のちがいがはっきりとわかる。
喜んでばかりもいられなかった。

しかし無農薬だったら食べてみたいというお客さんはいる。
直接に売ろうと思ったが、いい方法が思いつかない。
1990年代で、まだインターネットはない。

大阪に行って売ろうか。
食は大阪にありというからわかってくれるだろう。
知り合いなども1人もいないが、やるしかない。

送り先を大阪駅にして、受け取り人を木村秋則にして、リンゴを10箱送った。
木村は電車で向う。

大阪駅につくと、駅員はカンカンだった。
無断で送りつけたのだった。

謝罪として、おずおずとリンゴを差し出したのだったが、無農薬と聞いて丸かじりした駅員の表情は和らいだ。

「駅のどこかで売らせてもらえないか」「それはダメだ」と言い合いしていたのも、リンゴの箱が詰まれていたのも、駅のホームだった。

たちまち物見高い大阪の人が集まってきて、1人が大阪城で食のイベントをやっていると教えてくれた。

駅員は台車を貸してくれて、木村はリンゴ箱を積んだ台車を押して大阪城まで向かう。

主催者になんとか頼み込んで、イベント会場の入り口の脇で売ることができた。
が、見劣りするリンゴへの反応は、冷ややかだった。

「無農薬のリンゴです」という、とっておきの売り文句があったが、1日かかって数人にしか売れなかった。

10箱は、そっくりそのまま売れ残った。
青森へ送る運送代もでない。

隣で柿を売っていた和歌山の農家が、すべて貰ってくれたのが救いだった。

帰りの電車は、うんざりするほど長かった。
すでに木村は、40歳を過ぎていた。

こればかりは。
リンゴの木にお願いしてもどうしようもない。

人々に見向きもされなかったらなんともならない。
でも、ここまできたら我が道をいくしかない。

あとは野となれ山となれと、リンゴ畑で思っていた数週間後に、1通の手紙が届いた。
大阪で買ってくれたお客さんからだった。

「あんな美味しいリンゴは食べたことがありません。また送ってください」と書いてあった。

ラストの20ページを省いたラスト、木村秋則の言葉で

あのときのリンゴは、すごく甘かったんだよ。
なんだろうな。
リンゴの木が、ちょっとだけ手助けしてくれたかもな。

ともかく、お客さんが支えてくれた。
買ってくれる人が少しずつ増えていった。

リンゴの実を成らせるのはリンゴの木で、それを支えるのは自然だけどもな、私を支えてくれたのは、やっぱり人であったな。

考えてみればよ。
バカだの、なんだのと周囲から白い目で見られていたのも事実だけど、そういうときでも味方してくれる人はいたのな。

電気代や水道代をこっそりと支払いをしてくれた友達もいたし、スクラップ屋も代金をとらなかったし。

銀行の支店長も「それを払ったら生活費がないだろう」と利息を受け取らないときもあった。

税務署にも差し押さえの赤紙を何度も貼られたけど、課長さんは「いつかはあんたの時代がくるから」って、ずっと励ましてくれた。

近隣の畑の人も、なんのかんの気を遣ってくれた。

リンゴがならなかったときは、とてもそんなことまで考える余裕はなかったんだけどな。

少しづつ、いろんなことがうまくいくようになって、だんだんと、そういうことがわかるようになってきました。

リンゴの木が、リンゴの木だけで生きられないようにな、人間もな、1人で生きているわけではない。

私もな、自分1人で苦労しているようなつもりだけどよ、周りで支えてくれる人がいなかったら、とてもここまではやってこれなかった。

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