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疫病、モバイル性、内面化

疫病(はやりやまい)は、人びとのあいだを分断する。

それをいま僕らは身をもって体験してるわけだけど、他人とのあいだを分断されて、部屋のなか、自分のなかにひきこもったとき、活躍するのがモバイル性のある情報メディアだろう。

たぶん、いまスマホがなかったら、僕らのひきこもり生活はもっと退屈だったに違いない。

とはいえ、過去のどの時代にも、その時代時代にあったモバイルツールが、疫病によるひきこもり生活を助けていたようにも見受けられる。

1665年、ペストが流行ったロンドンで

たとえば、王政復古期のロンドンでは、1665年から1666年にペストが大流行し、当時の人口の4分の1にあたる100,000人あまりの死者が出た。

その際の外出自粛生活を支えたモバイルツールが2つある。

まず1つ目は印刷された聖書である。
マルティン・ルターが「聖書に書かれていないことは認めることができない」と言って以来、プロテスタントは、聖書を重視してきた。

聖体拝領が行われるカトリックのミサのような物質性をともなうものと異なり、聖書の言葉のみを重んじるプロテスタントは基本的に携行可能な聖書さえあれば信仰が成り立つ。
そもそもプロテスタンティズムが可能になったのも、グーテンベルクの活版印刷の発明が15世紀にあったからこそだ。

当然、プロテスタントであるロンドンの清教徒たちも、聖書を重視し、個室でひとり聖書を通じて神と向き合っていた。
だからこそ、ペスト禍においても信仰に支障をきたさなかったということは、1つ前で紹介した『アレハンドリア』にも書かれていた。

清教徒というのは人間が集まって何かをやる空間をとても嫌う。もちろんそれは当時ペストが流行ったせいもありまして、劇場封殺というような事件が起こるんだけど、そのため悪魔の存在を許す共同幻想の成立する場がどんどん潰されていった。それに替わって生まれたのが個室文化ですね。個々の人間はそれぞれの個室にいてお祈りをあげる、その一対一の結びつきが大事なのだという考え方。

そして、この引用の続きにあるのが、もうひとつのモバイルツールだ。そう、小説である。

同時にそれは小説の発生にも繋がるんです。広場が潰されることによって芸能が衰え、その一方で、個室で読まれる小説というジャンルが生み出されていくわけです。

イギリスにおける小説が本格化するのは、先駆者といえるダニエル・デフォーが『ロビンソン・クルーソー』を1719年に発表するまで待たなくてはいけないが、エリザベス朝期のシェイクスピアに代表されるイギリス・ルネサンス演劇を敵視していた清教徒たちは、清教徒革命を成功させたのちの1642年9月2日にロンドンのすべての劇場の閉鎖を命じた。

これにより、シェイクスピア作品も演じられるものから、印刷されたものを読むものに変化する。
つまり、ミサがひとりで読む聖書に変わったのと同様、演劇もみんなで観るものからひとりで読むものに変化したのである。そして、それは時間をかけながら小説へと変わっていく。

いずれにしてもそれを支えたのはモバイル性のある印刷本であり、それが個室で他人から分断されながらも疫病禍の生活を支えたのだ。

1832年と1849年のロンドンでのコレラ大発生

同じようなことが、ヴィクトリア朝期の1832年と1849年に同じくロンドンで大発生し、合計で14,137名の死者が出たコレラのときにも見られる。

産業革命と拡大する大英帝国の植民地が英国をもっとも潤わせていた時代の疫病は、人びとを室内に閉じこもらせても、その室内を所狭しとさまざまなもので埋め尽くさせたことは、ピーター・コンラッドが『ヴィクトリア朝の宝部屋』で示している。
そして、そのものをぎゅうぎゅうに詰め込む傾向は、単に室内のみならず、ヴィクトリア朝の時代のさまざまな芸術に見られたというのだ。

「細部の宝庫ではあるが」とヘンリー・ジェイムズはジョージ・エリオットの『ミドルマーチ』について言っているー「しかし、それは無頓着な全体である」。同じことがヴィクトリア朝の全体について言えるかもしれない。ヴィクトリア朝の芸術作品はしばしば、その時代の室内と同様、できるかぎりぎゅう詰めにすべき入れ物であるように思われる。

これはある意味、すべてをスマホのなかに入れて持ち歩いている僕らの傾向と同じである。

ヴィクトリア朝の時代の人びとも、持ち歩けない演劇や彫刻ではなく、なんとかいろんなものをぎゅうぎゅうに詰め込んで持ち運べる小説や絵画を好み、かつ、その内部にひきこもった。
これもzoomなどのツールのなかにひきこもる僕らと同じだ。

コンラッドは、

荘重体は、英雄の行動や、公の偉業を記念する。だが現代の文学は公の場から私の場へと向かい、公衆の目の前で送られる生活という古典的理想(そこでは私的生活の静穏を好むのは愚か者だけである)から、自己陶酔へと向かい、自己の内側にこもり、家庭に閉じこもるようになってきた。

だとか、

古典的芸術は外的な構造と外観を扱うように感じられるが、これは彫刻で表すことができる。いっぽう、ロマン主義的な芸術は内部生命、すなわち魂を扱うが、これは絵で表すことしかできない。なぜなら、カンスタブルが語ったように、絵画は「感情を表すもう一つの言葉にほかならない」からだ。彫刻は堅固であり、永遠の形態をつくり出す。けれども絵画は、ロマン主義的なはかなさの感覚、つまり、詩人たちがつかの間ある啓示を垣間みたかと思うと、風景の上を通りすぎる光の斑点のようにすぐにそれを見失ってしまう、あの「時間の点」を表すことができる。ターナーの震えるような形態において最も完全に表現された、絵画の、この、時間に縛られたはかない側面は、絵画を、もう一つの中心的なロマン主義芸術である音楽と結びつける。

だとかと書いている。

この内面化に向かう傾向が、小説や絵画などのモバイル性のあるツールにおいて展開されたことが17世紀の反復を思わせる。

そして、2020年、全世界で、

室内さらには自己の内面性へのひきこもりを促す疫病は、こんな風に、閉じこもった自分の手のうち、あるいは自身の内面にすべてを所有可能にするモバイル性のあるツールを発展、普及させる。

いまなら各種のサブスクリプション型のコンテンツ配信サービスがそうだし、さまざまなモバイルコミュニケーションツールがそれに当たるだろう。

面白いのは、疫病のあと、すこし経ったのちの展開だ。
17世紀のペストのあとは、先に書いたようにデフォーらの小説が流行する。
19世紀のコレラのあとはロマン主義小説がより劇的なものとなって『フランケンシュタイン』や『吸血鬼ドラキュラ』のような怪奇小説が生まれたし、ターナーの内面でみた絵はその後、印象派絵画へとつながっていく。
さて、今回の疫病のあとには、どんなものが生まれるのだろうか?

モバイルツールが進化するのは良い。
危機を乗り越えようとする健全な傾向だと思えるから。

だが、内面化のほうはいかがなものだろうか?と思わなくはない。内面を磨くほうに向かえばまあ良いが、それが外部を排他的に扱うような傾向に向かうとしたら危険だ。



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