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前の晩の残りものは昨日と味が違うから

朝はたいてい、昨晩の夕食の残りものをおかずに済ませることが多い。

いまの時期はもちろんのこと、残りものは夕食後に冷蔵庫に入れた保管し、朝レンジで温めなおして食べる。ほとんどの場合、前の晩に食べたときと味の違いを感じる。

多くのものは、出来たてで食べたときのほうが美味しい。ホテルのバイキングの料理みたいなものだ。たぶん、あれも出来たてはもうすこし美味しいんじゃないかと思う。

なので、前の日の美味しかった記憶が強いと残念に感じることもある。
かといって、昨日全部食べちゃえばよかったとはなるわけではない。ただ、前の日のほうが美味しかったなとまでは思わない場合も、一晩で味ってこんなに変わるものなんだと思いながら食べているわけである。

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一晩で変わるといえば、家で育てる植物もそうだ。
一晩で大きく伸びたり花を咲かせたり。たった一晩で、目に見えて明らかな変化をする。

生のもの、有機的なものってそもそもそういうものなんだと、変化に気づくときにあらためて思ったりする。そんなとき、人工的な物事に囲まれていると忘れがちだが、きっとこうして刻々と変化していくことの方が、世界のデフォルトなんだろうと考えたりするわけだ。

変わるほうがデフォルト

変化する自然のものと、変化しない人工的なものという風についつい分けたくなるが、実際はそれほど単純なものではないと思う。

自然と人工という対立軸がそもそも違っていて、実際のところ、変化している料理だってまぎれもない人工物なわけだ。料理に比べたら変化の速度が遅い、衣類や家具、建築物だって、時間とともに変化する。ようは、素材そのものは人間がつくっているわけではないということだ(いや、ものそのものは、人間にはつくれないというほうが正しいのだろう)。
植物由来、動物由来の有機的な材料を使ったものは変化の速度がはやく、金属やプラスチックなどだともうすこし変化がゆるやかだったりする傾向はあるかもしれない。いずれにしても人工物は自然のものを素材とするのだから当たり前のように変化するのだ。

だとすれば、むしろ、変化しないものなんてあるのか? と疑問がわく。
変化を前提に考えられない僕らの思考や態度はだいぶ欠陥があるんじゃないか? と考えてみたくなる。
保守的態度ってなんだろうとか、変わる環境に合わせられるよう勉強したり経験したりしようとしないのはどういうつもりかとか。
変化しないことに頼りがちな人間の日々の生活や思考にそもそも疑問を感じるようになる。

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変化とゴミ

変化をデフォルトとして受けとめきれてない僕らは、ほとんどの変化を劣化として認識しがちだ。

そんな風に考えてしまいがちなのは、元の状態を――というのは設計として企図された最初の状態を元とするからだが――あたかもそのまま変わらないものであるかのように描いてしまうデザインの志向性があって、それはなにより理念、イデア、真実、不死の神の世界、あるいはそれを表現した言葉を、自然や死を運命としてもつ人間そのものよりも上位なものと考える西洋的なものの捉え方からの影響が大きいのだろうと思う。

変わらぬ理念をあらわした姿と、自然のもの運命に従って劣化しもはや理念をあらわせなくなった姿。
そんな風に、固定した「理念」を基準に考えてしまうことが、生命としての自然からは大きく隔たっている。
まさに、いまの環境破壊や社会問題の根底にあるものが、この変化をデフォルトとして捉えることを妨げてしまっている、変わらぬ理念をあるべき姿であるかのように想定してしまう人間的姿勢にあるのではないかと思う

そんなに自分たち人間が、植物や動物、自然環境そのものといっしょくたにされるのが嫌なのだろうか。自分たちを特別扱いしておかないと、そうしたものから気兼ねなく搾取することができなくなって困るからだろうか。自分たちを特権化することで他者のことを顧みないのは、経済格差や人権の問題とまさに同じだ。

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ラトゥールが『地球に降り立つ』で、非人間も含めて、行動や変化の記述をしようと提案するのは、まさにこうした観点で捉える必要があるのだろう。変化を見ない怠惰は悪だ。

どのようにしたら動的状態それ自身の「依存」状況を正確に記述することができるのか。マイナスのグローバリゼーションはそうした記述の段階を事実上不可能にした――むしろ不可能にすることがマイナスのグローバリゼーションの目標だった。つまり、マイナスのグローバリゼーションの目標は、生産システムへの懸念の表明を不可能にし、抗議の根本を断ち切ることにあった。
「依存」状況を正確に記述していくには、鞄の中身を取り出す段階を設けることが重要だ。まず、地理―社会的闘争が置かれている情景を表現していく。次にその表現を洗練させていく。それからようやく情景の再構成に取りかかる。どのように?――いつもと変わらない方法で。つまり、底辺から上に向かうボトムアップの方法で、調査を駆使して再構成を行うのである。

生産規模と必要な地球資源のバランスのぶっ壊れた現在のシステムは、刻々と起こる変化の連鎖を見て見ぬふりすることで可能になっている。
そんなふうに見えないように鞄のなかに仕舞われた、その中身を取り出すこと。ラトゥールが僕らに勧めているのはそういうことだ。
さらにいえば、その鞄の中身は常に昨日の状態とは変わっている可能性があり、変化をデフォルトとして捉えられる非人間的な鞄の中身同士はつねに変化に応じて、隣人との関係を刷新し続けているということ。そういう状態をつねに観察し、記述するということ。「つまり、底辺から上に向かうボトムアップの方法で、調査を駆使して再構成を行う」のだ。

もちろん経年変化を味が深まると捉えて、変化を歓迎する考え方もある。だが、どちらかというと少数派の考えかもしれない。
いまサーキュラーエコノミーへのシフトを考える際に問題視される、これまでのリニア型の経済において商品は最後に「ゴミ」として廃棄されるという考え方自体、変化というものを恒常的なものと捉える姿勢がないことに起因するのだろうと思う。モノのありようを単に理想的な状態とそれ以外の状態に二分してしまい、後者を「ゴミ」という概念に分類する、非自然的な発想に基づく過ちなんだろう。

日々刻々と変化し続けているモノの状態を受けとめる姿勢がそもそもあれば、単純な二元論でモノを、有効/無効、製品/ゴミ、新品/ユーズドなどで分けて、後者を厄介払いするような思考停止の態度もあらたまるのではないかと思ったりする。

「記述するということは、具体的な事態に注意することであり、目の前の状況に固有に妥当する報告を見出すことです」というラトゥールの言うことを聞いて、記述を心がけ、つねに変化している「具体的な事態に」注意を向けられるようにしたいものだ。

行為とその解釈

さて、話がちょっと逸れるが、日々、特にジャンルやテーマなどを絞らず、気になった本を手当り次第読んでいると、思わぬところで発見があったりする。
それが目の前の必要性のみにしたがった短絡的な計画に沿ってばかりの読書せずに、いろんな本に雑多に手を出してみることの醍醐味だ。

いま読んでいるポール・ド・マンの『ロマン主義のレトリック』はまさにそういう予期せぬ出会いに満ちた本で、自然の事物とそれに向き合う人間の頭のなかの世界との相対する関係についていろいろと考えさせてくれて面白い。まさに、ここまで書いてきた変化する自然の事物と、変化しない理念といったことをいま言葉にできているのも、この本を読みすすめていたからでもある。

この本では、主に19世紀のヨーロッパのロマン主義の詩を扱っているので、そこにはすでに産業主義化されて自然から切り離された社会と、古の神話的叙事詩的世界とのあいだで創作する詩人たちのさまざまな葛藤や工夫を、著者のポール・ド・マンが明らかにしてくれる。

たとえば、同じ1770年生まれの、ドイツのロマン主義詩人のヘルダーリーンと、イギリスのロマン主義詩人のワーズワスを比較した「第3章 ワーズワスとヘルダーリーン」では、2人の詩人がそれぞれどのような形で、神話的世界と人間的な歴史の世界とを受け止めて詩作を行なったかが考察される。

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そのなかで、こんな風に、人間の行為、行動とその解釈、理解との関係に関して、論じた箇所がある。

行為と、その行為についての解釈のこの時間的な重ね合い、ヘルダーリーンはこれを二重のイメージをとおして象徴化しているし、ワーズワースは行動の完成を行動の理解から分離するところのギャップをとおしてそれを象徴しているが、この分離は詩的時間性の一般構造を露わにする。それは、そのままであれば、意識から引き下がる未来の無存在のなかへとただちに沈み込むことになる過去に持続性を付与する。したがって、この行為をとおしてのみそれ自体の喪失を脅かされている記憶が自己保存に成功することになるのである。

人間の行為あるいは行動によって、そのまわりの世界は多かれ少なかれ影響を受ける。大きなエコシステムのなかで人間存在もその一部として、変化にコミットしているのだから。

もちろん、僕らはそのことに意識的なこともあれば、まったく意識していないこともある。いや、後者の方が多いからこれだけ環境破壊などが問題になっているのだといえる。変化の一部としてある僕らの行為について、僕らの行為が及ぼす影響があまりに大きくなりすぎてしまっているからこそ、みずからの行為とその影響について理解、解釈することが必要になっている

暴力と保護

そうした行為や行動についての「解釈」あるいは「理解」をヘルダーリーンもワーズワスも問題視した。それは先のラトゥールの記述を心がけ、注意を向けようという提案に重なる部分もある。

しかし、行為や行動とその解釈と理解は、同じではなく、ヘルダーリーンのように二重のイメージとして描かれたり、ワーズワスの場合のようにギャップとして描かれたりされる。ゆえに、解釈や理解はある意味、人間の恣意的なものとなり、理解や解釈を行なっているつもりが人間の側の単なる押しつけにもなりかねない。

だからこそ、ヘルダーリーンもワーズワスも、解釈=記述を行うにあたり、人間にとって暴力的にもなりうる自然の神話的性格と、より穏やかな地上的な性格をいかに統合するかを苦心したのではないだろうか。たとえばヘルダーリーンについては、次のように考察される。

ある詩がタイタン族から解釈の内面性への推移を達成し、これら2つの要素の痕跡を詩自体のなかに保持することが可能となるのである。多くのロマン派詩人のなかに見出される英雄的な要素と預言的な要素はこのタイタン的な源泉から由来するものである。しかし詩はこの力が死の未知の未来に出会うために盲目的に突進することはけっして許さない。それはそれ自体に立ち戻ってきて、そして地上に結びつけられたままでいようと努め、行動の〈暴力的な時間性〉を解釈の〈保護的な時間性〉と置き換えるところの一時的な次元の一部となる。

行動の暴力的な時間性を、その解釈の保護的な時間性に置き換える。ここに解釈すること、記述することの意味が生じてくるのではないか。

それがあらかじめ企図したものであろうと、あらゆる行為や行動は暴力的なものを含まざるを得ない。行為において暴力的なものは不可避である(企図しない部分が行為にはどうしても残るのだから)。

だからといって、行動しないことは人間に限らず、どんな存在にもありえない。だとすれば、行為のあとを解釈によって保護することは、変化というものをデフォルトに考えるためには不可欠ではないかと思うのだ。

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記憶と手入れ

さて、ヘルダーリーン、ワーズワスのいずれの戦略をとるにせよ、それによって過去の行為や行動が記憶として保存可能になる、ということを、ド・マンは指摘している。

そして、ヘルダーリーンの語るギリシア神話の記憶を司る女神ムネーモシュネーの死を引き合いに出しながら、最初の引用文のあとにこう続けている。

ヘルダーリーンの讃歌の第3版の終わりのところで言われているムネーモシュネーの死はまた、詩の終焉になるだろう。詩人は最終的に、記憶を、未来に向けて自己投入し、この企図のなかで自己破壊する英雄的行為についての記憶を、保持しようとする配慮をとおして自己を英雄から分離する。詩人と歴史家の両者は、彼らに先行するが彼らの介入によってのみ意識のために存在する行動を両者がともに語るようになるので、この本質的な点において収斂するのである。

詩人と歴史家は、英雄的行為を記憶として保持できるようにすることで、みずからを英雄から分離する。それは英雄的行為の前に置かれることで、英雄的な暴力的行為が発動するのを幾分かでも抑制することにはなるのだろう。

この世界がつねに英雄的な変化が起こることがデフォルトであることを認め、そうであるからこそ、神話的時間と歴史的時間をうまく重ね合わせる記述を駆使することで荒ぶる神を鎮まらせつつも、その力の恩恵も受けるという立ち振る舞いがいま必要になってくるのではないかと感じる。

そういったものを、日常的な生活の知恵としたものが、発酵技術のようなものであろうし、里山の手入れ的な自然との関わりあいであったのだろう。あるいは、先日紹介したジル・クレマンの「動いている庭」のようなコンセプトをもった自然との関わり方もそうなのだと思う。

ある日、バイカルハナウドが通り道のまんなかに生えてきました。私は自問しました。「通り道に生えたからといって抜かねばならぬものだろうか。好きな植物ならばこのままにしてもよいのではないか」。私は残すことにしました。
こうして、バイカルハナウドは旅をします。「動いている庭」ということばが嘘ではないことをこの植物が示してくれます。庭師の役目は自然の動きについていくこと、つまり各社の植物が庭のなかを移動するのに付き添うことです。庭のかたちはその結果、たえず変わっていきます。図面とはどうしても異なってくると私が言うのはそういう意味です。

ああ、それなのに、僕らはなんて日々の観察や記述が足りていないんだろう。

自分も世界とともに変わりゆく存在であることを意識することができず、変わっていっているにもかかわらず、頭のなかだけは保守的で、勤勉さをことごとく欠いて解釈や記述に対してきわめて怠惰な毎日を過ごしながら、受動的に受けとる世界からの警告に対して、ただ何もせずに身勝手な文句ばかりを言い続けることを、みずからに対して、世界に対して良しとしてしまうのか?

そういう人にはきっと昨日の晩の味と次の日の朝に食べる残りものの味の違いもわからないのに違いない。


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