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スペクタクルとしてのエクスペリエンス

体験のデザインは、従来型のデザインとは相性があまり良くないのかもしれない。

従来の特定のもの(物理的なものであれ、ヴァーチュアルなものであれ)を対象にしたデザインは、ものの静的な性質(機能的には動作はしても生物のような生長という変化がないという意味での静的)を前提としていたのに対し、体験を対象にしたUXのデザインは元来、あちこち動きまわり、突然思いついたり、あるいは忘れたりで行動や思考、さらには好みや価値の優先順位がころころ目まぐるしく変わる人間の体験価値という動的すぎるものを対象にするため、個々のデザイン対象物に向かう才能スタンスも大きく変えざるを得ないと思うからだ。

実際、よく言われる体験のデザインは、ユーザーの体験を包括的にみることで、個別のデザイン対象物それぞれを別々に考えるのではなく、ユーザーの体験というひとつの生態系のなかの要素として、互いにつながり関係しあったものとしてデザインすることを求めている。系としてみるということで、デザインする人には必然的にシステム思考が求められるように思う。
少なくとも従来のデザイン以上に人の側からデザインというものを考え、その解に、静的な機能的な動作とは異なる、動的な生長の変化をどう取り込むかを考える必要があるだろう。

スペクタクルの社会

UXデザインに関わる人には、そういった人の思考や行動の側からの包括的な視点で、体験全体を見て、思考することができるかが大きなポイントになる。従来のように、人よりも、ひとつのデザイン対象物にフォーカスしすぎる考え方をやめられないとUXのデザインはむずかしい。ユーザーが一連の行動をする環境全体をどのように体験のステージとして包括的に捉えた上で、デザイン的な思考を進められるかである。

その意味で『スペクタクルの社会』の冒頭を飾るギー・ドゥボールの次のような言葉はUXの観点からもう一度捉え直してみてもよいと思う。

近代的生産条件が支配的な社会では、生の全体がスペクタクルの膨大な蓄積として現れる。かつて直接に生きられていたものはすべて、表象のうちに遠ざかってしまった。

ドゥボールは、1950年代から70年代初頭にかけて活動した前衛的集団アンテルナシオナル・シチュアシオニストの中心人物である。
ドゥボールたちの活動も一言で言うなら、芸術活動と言える。だが、社会があまりに視覚的なスペクタクルに覆われてしまい、1930年代以降は芸術の分野においても何ら革新的なものも生み出せていないと考えていたドゥボールは、その活動から徹底して視覚的表現を配したことで知られている。

『人工地獄』で、クレア・ビショップはそのドゥボールらの活動に関して、こう評している。

芸術と詩は、より充実した豊かな生として実現されるために、抑圧されねばならないのだから。ここにSIの虚無的なロマン主義的傾向のパラドックスの核心がある。芸術は放棄されねばならない。しかしその放棄は、日常生活を芸術のように豊かで躍動的にするため、圧倒的な疎外の凡庸さを克服すべくなされる。彼らの著述が反視覚的なのは、このためである。

日常生活を芸術のようにするための芸術の廃棄、反視覚的活動。
ドゥボール自身、「生のそれぞれの局面から切り離されたイメージは、一つの共通の流れのなかに溶け込み、そこではもはや、この生の統一性を再建することはできない」と指摘したように、街にはびこりスペクタクルを形成するさまざまなアートおよびデザインが生み出したイメージ郡は、人びとの生が本来もつイメージの流れをズタズタに切り裂き、他人のそれとごちゃ混ぜになったコラージュ状の擬似的体験をつくりだす。
つまり、なんら包括的な視点でのデザインがないなかで人は生の体験を強いられていたことをドゥボールは問題視したのだともいえる。実際には随分出遅れたが、本来的には、ここがUXデザインのスタート地点であっても良かったのだ。

視覚偏重はすでに始まっていた

もちろん、社会から視覚的スペクタクルを取り除けば、日常生活が「豊かで躍動的」になるわけではない。一度ズタズタに切り裂かれた生の流れは、その要因を取り除けば元の通り再生するというものでもない。とうぜん、リデザインが必要になる。
この方向から見たほうがUXデザインというのは、うまく行く気がする。単にデジタルなデザインの問題のみから考えるのではなく、コラージュ的に展開される人工的環境のイメージ群がバラバラすぎて、生の統一された体験を得られにくいという問題を相手にしたほうが。

そもそも問題はドゥボールが考える以上に古いのだ。
マクルーハンが『グーテンベルクの銀河系』で言うように、文字の登場以来、さらには活字によるその大量生産を機に、人間の感覚において「視覚だけを切り離し、それを孤立させた上で、それをすべての判断のもとに据える」という事態が起きた。そんなわけだから、20世紀のドゥボールの時代に社会が急にスペクタクル化したわけでもそもそもない。
人間の視覚偏重はルネサンス期にはすでに起こっており、だから、芸術のなかで絵画の占める位置が中心的なものになってもいる。それがドゥボールの時代よりすこし前にアートが街に飛び出し、ドゥボールが問題視するようなスペクタクルの社会の範囲が広まったということに過ぎないのだ。

パーソナライズとシェアリング

だから、スペクタクル化した社会を元に戻そうというドゥボール的な解決のベクトルはおそらくうまくいかない。視覚偏重になった人間がスペクタクル化された社会のなかで生きるということは、前提として、どう人間生活のより良い体験をデザインしていくか?を考えたほうが良いのではないかと思う。

人間の生きる環境はいまやリアルな社会だけでなく、ヴァーチュアルな空間にも広がった。それゆえに、ドゥボールが問題視したような、

スペクタクルは同時に、社会そのものとして、社会の一部として、統合の道具として、その姿を現す。社会の一部として、それは、あらゆる眼差しとあらゆる意識をこれ見よがしに集中する部門である。この部門は、それが分離されているというまさにその事実によって、眼差しの濫用と虚偽意識の場となる。そして、それが成し遂げる統合とは、一般化された分離の公用語以外の何ものでもなくなる。

ということだけが、問題なのではない。パーソナライズ化がますます進めば、スペクタクルが「公用語」であることすら疑わしくなっている。一方で体験とスペクタクルの関係がよりパーソナライズ化される一方で、ヴァーチュアルなものはもちろん物理的なものもよりシェアリングされる方向にシフト化してもいく。そうした変化のなかで、どう体験と物の動きや配置をデザインするかも体験のデザインには求められるだろう。

3つのデザインレイヤーとレイヤーに応じたデザインリサーチ

体験のデザインには、いくつかレイヤーがある。

1.古い体験を新しい体験に置き換え、新しい体験価値を創造するためのコンセプトデザイン
2.すでにあるサービスの体験のリデザインや、1.で考えたコンセプトを具体的な体験へと落とし込む際のトータルなUXデザイン
3.個別のデザイン対象を2.のトータルデザインに基づき、デザインする段階

と、3つくらいのデザインレイヤーに。

そして、UXデザインにはデザインを進める上でのデザインリサーチが欠かせないと思うが、このリサーチもデザインレイヤーごとに異なる適切なリサーチを行わなくては意味がない。2のレイヤーのデザインを進めるのに、1の段階でやるようなリサーチをしても必要な情報は得られないのだから。

こんなことも含めて、今後ますます平準的なスキルとなるであろうUXデザインにどう取り組むかは、いろんな場面で課題化されるのだろう。

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