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すべっていく言葉

すべっていく。
意味のわからない言葉が、中身をともなわないキーワードが、右から左へ、つるつる、つるつるとすべっていく。すべり落ちていく。

どこにもひっかかることなく、現れては消えていく。
あっちからこっちへ、ただ意味もなく移動するだけ。
何ももたらさずに、それに費やされる時間だけが浪費される。
言葉が何も生みだすこともなく、次々にすべっていく。

意味をもたない言葉の集合によって、自分も含めたまわりのみんなの活動の目的を示した文章を構成していたとしても不思議にも思わなかったり。
それが問題だなんて気づくことさえなかったり。

日々を生きるなかで、知ろうとする姿勢が絶望的に欠けてしまっている。

発せられて言葉、書き記された言葉がなにかしらの意味をもつということに対して、あまりに無頓着だったり。
そこに示されたものと自分自身のあいだで何かしらの関係を持とうとする姿勢はまるでなかったり。

未知なものに対する決定的な無関心。
ただ、知っている言葉が出てきたときだけ、機械的に反応するだけの思考停止状態。

あかん。これはあかんわー、と悪寒がする。

言葉を使うこと自体が、ある種仕事そのもの

今年もあとすこし。仕事をする日はもっとすくない。
今年はコロナ禍ではじまったリモートワークの日々に、zoomでのミーティングや、slackでのテクストでのやりとりが増えた。
対面でのコミュニケーションのもつ非言語的情報が極端に制限された、zoomやslackなどのオンラインコミュニケーションでは、それこそ言葉がもつ意味だけが頼りだ。
言葉を使うこと自体が、ある種仕事そのものだといえるような状況となったのは、今年がはじめてだったと思う。

毎日何時間も何本もzoomでのミーティングやワークショップをこなしつつ、slack上でいくつものテクストを読み、いくつものテクストを書く日々。
そんな言葉に塗れた時間の合間を縫うようにして、作成する企画や評価もまた言葉で組み立てられる。

でも、それはどれも言葉ではあるが、その言葉はときには誰かの悩みだったり、ある出来事の描写だったり、問題の記述だったり、あるものの量を示したり、別の事象の質を示したり、はたまた未来を示す強い想いだったり。
言葉がただの言葉であることは、そんなになくて、ほとんどの場合はどれも現実の意味とつながっている。

だから、非言語的な情報が極端に制限されたリモートワーク環境であっても、やりにくさはもちろんあったとしても、ちゃんと現実に意味のある仕事を続けてこれた一年だった(まだ、あと時間はちょっと残ってるけど。やらなきゃいけないことはちょっとじゃないけど。あー)。

形式に流されるままに

けれど、時には、現実のものとのつながりをもっているのかがあいまいな無意味に感じる言葉が混ざっていて困惑することもある。

中をあけて覗いてみても、真っ暗な底の見えない井戸のようで不気味だ。

そんな空虚な言葉を次々とはきだして平気な人がいるのに、いつも以上に気づいたのも、この言葉が仕事の2020のひとつの特徴だったように思う。

無意味な言葉を使い続ける人がいる一方で、他人の言葉の意味を読み取ろうとしない人が目立った一年でもあった。

さっきも書いたけど、ほとんどの言葉は、現実につながっていて、誰かの苦しみだったり、誰かの願いだったり、喜びだったり、嬉しさだったり、不安だったり、切なさだったりする。
目の前の事象の重大な変化であったり、地球の危機だったり、生命に悪い影響をおよぼすなんらかの圧力だったり、吉兆だったりもする。

そんな現実の有意なものごととつながった言葉をただの言葉として聞き流してしまう人がいることにも気づいた2020年だ。

そうした人が何をしてるかというと、言葉が話される場面でも、ひとつひとつの言葉が示している意味を理解し、それに対して具体的な活動で反応するつもりなど毛頭ないような態度で、あらかじめ決まった流れにしたがってプログラムをこなすのだ。

会議の決まったプログラム、仕事のルーティン、動態表に書かれたとおりのイベントやワークショップの進行をたんたんと守ることを重視するだけで、リアルタイムでどれもリアル=現実とつながっているはずの交わされる言葉、記述される言葉の意味には関心を示さないのだ。

現実より重視される形式。

言葉の背後に現実を見ることができないのはなぜ?

言葉がすべっていく。

言葉を使うこと自体が仕事そのものであるかのような、この2020年という環境でさえ、言葉を仕事につなげられずに、時間の流れとともに言葉を浪費し、つるつるとすべらせて、何も残さない。

サーキュラー・エコノミーなんてワードで、貴重なリソースをいかに循環させて利用できるようにするかが問われるなかで、言葉というもっとも身近なリソースをまるで味わうことない血肉化することもなく、右から左へ流れ消えていくままに任せてしまう人たち。

言葉を使うこと自体が仕事そのもののような状況で、そのようなありようでは、仕事が生産的であるはずはない。その言葉の無意味な流れからは残念ながら、何のまともなアウトプットも生まれない。

目の前で発せられる、記述される言葉が何を語っているのか? その意味に対して、現実に向きあうように向きあうことをしない限り、それが仕事になるはずはない。

何が足りないのだろう?

コミュニケーション力? 理解力? 知性? 知識量? 語彙力? 文章読解力? 文章力? 仕事に対する意欲?

いや、それよりも言葉に接する人自身の、自分自身に対する自信や自覚や自分自身に対する認識といったあたりの不足が原因だったりしないだろうか。
自分自身が言葉の背後にある現実に向きあうために必要そうな、そういう諸々のものの不足。

言葉の背後にある現実にまで手が届かないのはなぜ?

あとすこしでこの2020年が終わっても、2021年だって、まだまだきっとこのままの言葉の世界が続くというのに。

もしかすると、そもそも言葉の問題ではなく、言葉を介していない現実そのものにもそもそも手を差し出せなかったりするのではないだろうか。

自信、自覚、自愛、自慢、自分などが欠けていることによって、他人や他者と関わることができないことが遠因だったりするのかもしれない。

世界は解読せねばならぬ記号(シーニュ)でおおわれ、類似と類縁関係を啓示するこれらの記号は、それ自体相似関係の形式にほかならない。それゆえ、認識することとは解釈することである。すなわち、目に見える標識から、それをつうじて語られているものへ、それなしには物のなかで眠る無言の言葉(パロール)にとどまるにちがいないものへと、赴くことになるのだ。

ミシェル・フーコー『言葉と物』より。

理解しようとすること、解釈しようとすること、知ろうとすることに、しすぎるということはないと思う。

そして、そうやって、理解や解釈や知ることを通じて、他人や他者と向きあうということこそ、仕事の第一歩なのではないだろうか。

言葉とその背後にある現実にちゃんと向き合っていきたいものだ。







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