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来歴を捨象して

いまの僕らは、生活のほとんどにおいてそれに至った過程を捨象された状態のものばかりを選択しながら生きているんだなーということを今日ふと思った。

そう思ったのは、4月16日の佐久間裕美子さんと小川さやかさんをゲストに迎えた開催するオンラインイベント「Weの時代の経済考〜米国・消費アクティビズムとタンザニアのアングラ経済〜」で何を伝えたいのか?という議論を社内でしていたときに「自立と共生による新たな社会システムの再創造が気候変動や経済格差や人種差別や性差別、移民の問題や民主主義の危機など、さまざまな問題を乗り越えサステナブルな社会を実現するためのキーだよね」ということが伝わるといいねという話をしつつも、僕らが自立できていないのは、あらゆる物をその来歴もしらないまま分け与えられて、中毒のようにそうした来歴を知らないものにいつまでも満たされない要求を感じながら生きている、まさにこの状態をいうんだなと考えたりしたことだったり。

はたまた、哲学者の國分功一郎と当事者研究の熊谷晋一郎の対談をまとめた『<責任>の生成ー中動態と当事者研究』を読み進めながら、國分さんがハンナ・アレントを引きながら、意志というものが成り立つのは過去をすべて捨象した上で、すべてを自分で開始したように信じたときであり、実際過去をすべて投げ捨て自分ですべてをはじめることなんてことは不可能なのだから、自分の意志で行っているなんてことを信じるのは思考というものを停止した状態でしか成り立たないというようなことを書いているのを読んだりしたからだ。

自立するということと、自分の意志でするということ

来歴を知らない食べ物、衣類、薬や化粧品、あるいは、そういった物理的なもの以外でも、どういう経緯で生まれたのかわからない手法や知識、ルールなどに僕らの生活は囲まれている。
しかも、そうしたものなしではとても生活は成り立たない。

ようは、いろんなサービスにいちいちお金を払い続けないと僕らはまともに生き続けられないということになる。まったく自立的ではない。
いや、それで成り立つ人生がまともかどうかは、はなはだあやしいのだけれど。

ところで、その場合の自立することと、國分さんがアーレントを引きながら問う自分の意志で行うことって、いっけん似ているようで別物なんだなと思っている。

どこに違いがあるかというと、まさにあるものの選択、あることの決断に際して、過去を引きずるかどうかというところに違いがある。

アーレントがいうように過去を捨象することで意志は生まれる
いっぽうで、僕らが自立するためには、可能なかぎり自分たちが利用するものの来歴を知ること、それを知るためにそれがやってくる過程に参加すること(食物を育てるとか、調理するとか、自分で考えて答えを出すとか)が必要になる
つまり、自立のために、僕らは過去や過程とともにあることになる。

過去や来歴、過程という観点でみると、自立することと、自分の意志で行うことはまるで正反対だ。

そして、意志に責任がつきまとう一方で、来歴がちゃんとわかっていれば多くの事柄は単純に誰かの責任だなんてことがいえなくなる。

やたらと誰かのせいにしたり、外部のものの責任を問うたりするありようが、自立的に生きることとはかけ離れているように思うのも、きっとそのへんが関係している。

自分たちのことを自分たちで決めることの困難

先の本のなかで、國分さんと対談している、当事者研究と研究者である熊谷さんが言っている、こんなことがまさに意志や来歴という話と関係してくる。

熊谷 「自分たちで自分たちのことを決めます」といっても、それが難しい状況というのがあると思います。というのは、十全な決定をするためには、何を決定したらどのような帰結が自分に訪れるのか、そして、どのような帰結が自分にとって望ましいものなのかを知っている必要があるわけです。また、こうした知識は、自分とは何者なのかということに関する非常に基礎的なものだと思いますが、先ほどもお話ししたように、自分の望む状態や、自分の生活世界についての「こうすれば、こうなるだろう」ということがよくわからない場合がある。そうなると、決定自体が困難になってしまいます。そして、自分に関する基礎的な知が枯渇している場合、その困難さの原因を、自分の努力不足や意志の弱さなどに帰属させてしまうことが多く、挙句、「もっと、自分で自分を律しなければ」という見境のない自己コントロールが志向され、問題が複雑化しかねません。こういう状況に置かれた当事者に対し、「主観」という標語は、より一層本人を追い詰めるものとして機能するかもしれません。

当事者研究というのは、依存性で苦しむ人たちや精神的な疾患にある人たちを、健常者を基準としてそこに近づけるよう外からの治療法を考えるアプローチとは異なり、その人たち自身の側から、なぜいま起こっているような事象が起こるのか?ということを本人も含めたまわりの同じような人たちといっしょに、ある意味民主化的に自分たちで考えて問題解決にあたるアプローチといえばよいだろうか。

熊谷 当事者研究というのは、國分さんもよくおっしゃってくださるように、仲間とやる精神分析みたいなところがある。
國分 当事者研究は民主化された精神分析、もう少し言うと、お金がかからない精神分析とも言えるんじゃないかと常々思っています。

果たして自分(だけ)で決めることなんてできるのか?

そうした問題を日常的な社会とのあいだで抱えている人たちは、最初はなぜ、自分のまわりでそうした問題が起こっているかをうまく説明できない。
いや、本当は僕らだってそんなこと説明できないんだけど、問題になることが起こる頻度や重度が比較的に少なく軽いために、そうした説明が必要となる場面が少ないだけだ。

そんな状況では「自分で決めます」なんていうこと、つまりは意志をもつことなんてむずかしすぎる。もし決めれたとしたら、それは覚悟というより、自暴自棄になったときだけだろう。

自分のまわりで起こる事柄がなぜそうなっているかという来歴をうまく整理しきれてない状況では、「こうすれば、こうなるだろう」なんて算段は立つはずがない。

にもかかわらず、自分で決めなくてはとか、問題が起こらないように自分を律しなくてはと過剰に意識してしまうと、単に自分を追い詰めてしまうばかりになる。

熊谷さんが言っているのはそういうことであり、それは人間の来歴の多様さを鑑みることなく過去を捨象して、なんでも一律に選択を促してしまうことの多い、この社会のありようにも少なからず問題があるということなのだろう。

そして、意志というものに対する間違った期待がこうした問題の根本にはあるのでないか?と思う。

自分のことをわかっているとうっかり思う

でも、ここでもうひとつ問題がある。

来歴がわかればよい、過程がわかればよいという単純な話ではないのだ。というのは、それらがわかったとしても、それをどうまとめあげて整理すると、そこに有為な意味が導きだせるのかという課題もあるからだ。

この本で紹介されている例としては、熊谷さんといっしょにASD(自閉スペクトラム症)の当事者研究をされていて、自身もASDの診断名をもつ当事者である綾屋紗月さんの空腹感、おなかが空いたという感覚がわかりにくいという例がある。

というのも、僕らが日常的に感じている空腹感というものは、その来歴を考えてみようとすると、お腹が鳴るとか、唾液が出るとか、胃がぎゅっとしまった感じがするとか、なんとなく気持ち悪くなるとか、そうしたもろもろの事象をなんとなくうまくまとめ上げて、おなかが空いたなと思ってるのだけれど、ASDの当事者である綾屋さんは、そうした自分の身体のなかで起こるさまざまな事象をまとめ上げて「空腹感」を感じるのがうまくいかなかったり、時間がかかったりする

これ、読んで、僕は、宮本常一さんが『忘れられた日本人』などで明らかにした、かつての日本の村々での全会一致の結論が得られるまで幾日も幾晩も話し合う村の集まりでの合議のあり方に近いなと思った。

ようは直接民主制で多数決もなしに議論だけで全会一致の結論を出そうとするのに似てる。
参加者全員が決定の過程に関与した上で、結論をまとめ上げることなのだから、時間はかかる。

これは、ASDの当事者である綾屋さんが、自身の身体といっしょに「空腹感」という合議をまとめ上げるのにかかる時間の長さに近いのではないか?

ここに僕は、来歴へのこだわり、あるいは、その逆の捨象と、民主的なありようとそうでないグローバル資本主義が支配する現在の状況との対称性を感じるのだ。

そんなことを考えつつ、こんな熊谷さんの発言を読むと真底考えさせられる。

熊谷 「でも考えてみると」と、彼女は言います。いわゆる、健常者と言われている人たちが、「あまりにも、うっかりしているんじゃないか」。すぐに意志をまとめ上げてしまっているように見える、と。「空腹感って、そんなに簡単にまとめ上がるの?」と疑問を提起しています。
もしかしたら、ここで言われている「うっかり」ということこそが、「切断」の別名なのかもしれません。いわゆる健常者は、あえて切断しているわけではなく、うっかり、つまり意識しないうちに情報の一部を切断している。実際は、きわめて大量の、かつお互い矛盾するようなアフォーダンスがあるわけですが、いつのまにかそれが取捨選択され、まとめ上げられて、モル的な意志が生成されている。

円環と直線

僕らは、きっとうっかりしすぎて、いろんな過程を捨象きてしまっているのだ。

いわゆるサーキュラー・エコノミーがいま求められる理由もその観点から理解するほうが良さそうだ、と思う。

ようするに、循環において重要なのは、資源が無駄なくまわり続けることもそうなのだが、それがどのような来歴を経ているのかということに、その利用に携わる人たちがみな知っているということを実現することなのだと思う。財に関する直接民主制だ。

ゆえにサーキュラー・エコノミーの話は、コモンズと関係する。

一方のリニア・エコノミーのどこに問題があるかもその観点ではじめてわかってくる。

つまり、作って供給する場合も、利用する場合も、廃棄する場合も、誰もがみな来歴や過程を気にせず捨象して、過去も未来も切断してしまっているからだ。

だからこそ、逆説的にそこには意志や責任の問題が発生する。誰もが過程を切断しているがゆえに、意志が問われることになる。

ここでも、國分さんと熊谷さんの対談の話が関係してくる。今度は國分さんの発言だ。

國分 意志の概念はどこから来たのか。哲学者ハンナ・アレントは『精神の生活』という本のなかで、意志の概念を発見したのはキリスト教哲学だと言っています。古代ギリシアとキリスト教はしばしばヨーロッパの起源として同一視されてしまうことがありますが、実際には非常に異なっているどころか鋭く対立しています。ギリシアは非常にアジア的であって、その文明の根底にあるのは循環する時間と自然という考え方です。それに対し、キリスト教は直線的な時間感覚を生み出しました。始まりと終わりがある時間という考えです。

奉仕が負債になるとき

いやー、ここまでくると、いろんなことがつながってきて、面白い。

ひとつ前で、國分さんの別の本『中動態の世界 意志と責任の考古学』を紹介したなかでも書いたのだが、國分さんの話と僕が最近よく読んで紹介しているジョルジョ・アガンベンの話はリンクすることが多い。

そのアガンベンも、やはりキリスト教化していくなかで、西洋の思考に変化があったことを指摘しており、特に、ここでの話に関係してきそうなのは、『オプス・デイ 任務の考古学』で考察された、古代ギリシアにおいて公共奉仕を意味していたレイトゥールギアが、キリスト教が普及していくなかで、典礼(liturgia リトゥルジーア)を意味するものとなり、その典礼においては司教は神のわざ=オプス・デイを代務する者として、他者=神のわざを自分ではまるで理解することなく身体のみを提供して代行する存在、まさに来歴や過程を捨象する者となったという話だ。

ここでかつては公共のため、みんなのための奉仕=コモンズであったものが、神から預かる任務=負債のようなものに取って代わられるのだ。

これも神から人への直線的で不可逆なものとして、ギリシアにおけるアジア的な香りもする円環の思考とはまったく異なるものとなった例といえる。

こうした観点において、来歴や過程に参加すること。すなわち、それが國分さんが描く中動態の世界でもあるのだが、そうした観点において、共生ということを考えてみる必要があるのだと思う。

そうそう、自立と共生はセットだと思うのだ。だからこそ、佐久間さんと小川さんをゲストに迎えて、そのあたりの話もしようと思っているのだ。そのあたりの話はまたおいおい。




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