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内輪の必要性

人にとって群れとはなんなのか。人はなぜ群れを成し、内輪と外部の境界を設けようとするのか。内輪はなんのために必要なのだろうか。

前回紹介した『コミュニティを問いなおす』で広井良典さんは、コミュニティ=共同体を、個体と集団全体のあいだにさまざまな形の中間的な集団が存在する重層社会において、その中間的集団の役割を果たすものと捉えている。

個は内輪を介して社会に対峙する

中間的な役割の集団としてのコミュニティは、その内部にあって個と個をつなぎ、たがいの役割分担のようなものを形成しつつ関係性をつくることで、個々人が日々の活動をスムーズに行えるようにする。
また同時に、個々がコミュニティの外部としての社会全体あるいはその一部に対峙する際、会社や家、出身地のような形で個が依って立つ母体=基盤として機能し、個のアイデンティティ形成を確立することを可能にする。

このような内と外の両方において、個が社会に相対することを手助けするためにコミュニティ=内輪は必要なのだろうと思う。

いわゆる「自分探し」の沼にはまりこんでしまうのは、この自分が依って立つコミュニティをうまく見つけられないことと関係してるのだろう。
そして、所属する会社や地方や国、あるいは家などに不満をもつのも、自分の日々の暮らしがスムーズに運ばないことや自分のアイデンティティ確立がうまくいかないことに起因するものだと考えてよいのかもしれない。

プロトコルが共有されている

このような意味において、個人がなんらかのコミュニティのメンバーであることは、社会で生きていくためには不可欠なことなのかもしれない。

もちろん、コミュニティへの帰属が薄い人もいるだろう。
コミュニティそのものがきわめて人間関係が希薄だったり、インターネットを介した経済的なやりとり、事務的なやりとりのみで成立しているコミュニティもあるはずだ。
ただ、その場合でさえ、個人が生きていくためには、そのコミュニティ内で暗黙に存在する振る舞いのルール、言動のマナーなどに沿って動くことが求められているはずだ。

この共有されたルールやマナーを、プロトコルと言い換えてもよいかもしれない。
コミュニティ=内輪においてはプロトコルが共有されているのではないか。

以前に紹介したアレクサンダー・R. ギャロウェイの『プロトコル: 脱中心化以後のコントロールはいかに作動するのか』で、「プロトコルは、その実行のただなかでこそ存在する」と題された序文を書いているユージン・サッカーは、「規律=訓練型社会にとってのパノプティコンに対応するのが、管理=制御型社会にとってのプロトコルである」と書いている。

トップダウンで規律に従うことが強制されるパノプティコン型の社会に対して、分散型の管理=制御が可能になるプロトコル型の社会は一見自由度が高くおもえる。

意味ではなく行為が統御対象に

しかし、サッカーはこうも書いている。

プロトコルという観点からみると、そこには生物体もテクノロジーもない。統制的なかたち、運営管理されたかたち、規範的なかたちをしばしばとる、諸々の「生命体形式」のあいだにありうべき相互作用があるだけなのだ。これこそが生政治と呼ぶことができるものである。プロトコルという文脈では、いくつかの技法上の概念によって、情報技術と生物技術とを連結することができるのである。

そう。プロトコル型の管理社会で管理の対象となるのは、生そのものである。
思考や精神ではなく行為や物性が、意味ではなく話法や統語法が問題視され、管理=制御の対象となる。

まさに、アガンベンが問題視するようなバイオセキュリティ社会のリスクであり、AIや個人情報の管理の問題へと近づく。

たとえば、武邑光裕さんは『プライバシー・パラドックス』のなかで、インターネットコミュニティのなかでプロトコルに従ってデジタル上でのみずからの行動データを大企業や中国のように国家に対して(無防備に)提供し続けることのリスクを明らかにしたうえで、その対策として個人データを民主的に市民自身で管理し利用していく方向性を次のように示している。

近い将来、現状のテック巨人が私たちのデータ・プライバシーをほぼ独占的に収集する環境が変化し、個々人がブロックチェーン技術などを実装して企業に個人データを能動的に提供することで、企業からその見返りとなるサービスを手に入れるという「契約」が成立する。
そのとき、生身の「私」がデータ・プライバシーの管理と運用を行うには膨大ない契約業務をこなす時間が必要となり無理が生じる。そのため、デジタルツインに個人的データをどの事業者に提唱するかなどの判断基準をあらかじめ設定し、ツインがネット上で事業者などとやりとりする。これにより、個人のプライバシー保護は確実なものとすることが期待される。

この民主的なデータの管理、プロトコルの作成と管理を可能にするうえでも、内輪=コミュニティを市民レベルで民主的に作成する必要があると思う。

新しいプロトコルをデザインする

プロトコルの設定権が自分たちの手元にない状態という典型例は、ウーバーなどのギグワーカーのプラットフォームだろう。仕事をするためのプロトコルの設定権は、プラットフォーム側にあって、実際に働くドライバーたちの手にはない。

ゆえに、ドライバーたちは自分たちがより良く働けるようにするための方策をもつことができないし、かといってプラットフォームの提供するプロトコルなしではその仕事を続けることもできない。

こうした働く人が幸せになれない状況を回避するためにも、働くことを可能にする仕事のプロトコルを民主的に働き手たち自身のものにしていけるようにする必要がある。

そのひとつの形が昨年12月に成立した労働者協同組合法にもとづく、労働者協同組合(ワーカーズコープ)だったりするのだろう。

『コミュニティを問いなおす』のなかで、広井さんは、次のような形で「新しいコミュニティ」の必要性を説いています。

全体としては、「私」(市場)中心のシステムという性格が特に近年強まっており、この背景には、社会システムの根底をインフォーマルな形で支えていた「共」的基盤が弱体化し、それに代わる「新しいコミュニティ」(ないし公共性)と呼ぶべき人と人との関係性や価値原理がなお未確立であるという点が基本としてあるだろう。ここでの「新しいコミュニティ/公共性」とは、他でもなく本書の中で論じてきたり都市的なコミュニティ」、つまり(ムラ社会な共同体ではなく)独立した個人と個人がつながるという形の関係性であり、社会保障を含めて真の意味での「都市」というテーマに日本社会が直面しているのが現在といえる。

従来の地方のあり方が、自治体の機能の維持も含めて困難になっているのと同時に、極端な東京集中も多様性を損なうことを中心にさまざまな問題を抱えるなか、どうしたら、この東京集中を回避して、新しく地方にも分散した形で、生活や経済の基盤をデザインしなおせるのかが、日本全体に求められていることだろう。

そのときに、新たな生き方を可能にする民主主義的なプロトコルのデザインが必要なのだと思う。

どうやって社会全体と個々人の中間的な存在としての新しい内輪をつくるのか? このあたりはこれからいろんな人と議論をしていきたいと思っている。


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