これを読むかぎり、市場経済に対するオルタナティブは、市場経済の誕生とともに生まれたと言えそうだ。
ヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論』を読むと、ヨーロッパ19世紀における社会の変化がどんなものだったかを感じとることができる。
19世紀の前半にまずは、パサージュが大量生産、大量消費の大衆消費社会の幕を明け、半ばになるとその舞台は百貨店が取って代わる。モードが生まれ、人びとは自分を売って、商品を買う者となる。
労働者であり、消費者であることは二重の意味で搾取される者になることかもしれない。自分の時間を売り、そのお金で買ったもので自分の時間を浪費することになる。人びとはその時代にはじめて大衆になったのだとベンヤミンはいう。
それがヨーロッパの19世紀だ。
民衆の自律の夢
冒頭の引用は、そんな大衆消費社会が誕生した19世紀に、同時にそれに対抗するオルタナティブな経済社会が検討されていたことを示している。
労働者たちが自分たちで共同の資産=コモンズを共有し、共同で活用して、共同の財を得る。ただし、新自由主義的な資本経済のように飽くなき利潤の追求を目指すようなことはしない自律的で民主的な組織の形態が模索されていたのだという。
最近もweb3の文脈でDAO(Decentralized Autonomous Organization:分散型自律組織)といったキーワードが取り沙汰されていたり、ヨーロッパにおけるミュニシパリズムの運動のなかで用いられるワーカーズコープのしくみが、ようやく日本でも労働者共同組合法ができたことで可能になったりしているが、ようは市民革命と産業革命の結果あらわれた大量生産・大量消費の市場経済に対するオルタナティブは、それがあらわれたときから、市民たちの自律の夢として検討されてきたというわけである。
中央集権的な社会モデルと、自律分散型の社会モデルは、振り子のようにつねに互いに相手のベクトルを自分の側に引き寄せようとする。しかし、その引き寄せようとする力そのものが相手側の動きを可能にしているようでもある。
ウェルビーイングの夢から切り離された成功者のくつろぎ空間
ちょうどその当時書かれたエミール・ゾラの小説『ボヌール・デ・ダム百貨店』は、まさに大量消費社会の主要な機械である百貨店が、大量の消費者を生み出しながら、それまであった専門店を破滅に追いやりつつ、自身はどんどん巨大化していく様を描いた作品だ。
これは中央集権的なモデルが自律分散型のモデルを駆逐していく話である。
新しいモデルが従来の商習慣を壊滅的に過去のものとして置き去りにし、それと同時に買い物し続けなくては死んでしまう消費者を大量に生み出した。
成功する者とそれ以外の者が生まれる。それはいまも変わらない。成功者としての巨大プラットフォーム企業をどうにかしようというのがweb3にかけられた夢だろう。
しかし、web2が生まれた当初の誰もが創造する者になる時代という自律の夢が、その技術におけるリテラシーに長けた者に成功者としての地位を約束したように、web3の自律分散の夢も同じ道を辿らないとは限らない。当たり前のこととして、技術が誰もが使える可能性をもつ分散型であるということと、それを使いこなすリテラシーには平等とはほど遠い差が生まれることは、同時に成立するのだから、自律分散が夢と消えるのはまるで不思議ではない。
かといって、持つ者が必ずしも常に成功し続けるのかというとそうでもなさそうだ。次の引用における「くつろぎ」(これは倦怠とも言えるだろう)は、まさに成功した者が陥る袋小路を示している。
「よりよき暮らしをする」、いまの流行りの言葉で言い換えればウェルビーイングの夢を、くつろぎのなかに閉じ込められたブルジョワが見ることはない。
とりとめなく書いてみたが、19世紀の変化に目を向けることでいろんな学びがある。