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民衆の自律の夢

これを読むかぎり、市場経済に対するオルタナティブは、市場経済の誕生とともに生まれたと言えそうだ。

フランスにおける連帯経済の歴史は19世紀前半まで遡る。(中略)数多くの社会実験とともに、ピエール・ルーをはじめ初期社会主義やキリスト教社会主義の思想家たちによる「連帯」を重視した思想が生み出された。そこでは、市場経済に対するオルタナティブとして互酬的な関係性を基盤とした労働のあり方、労働者による生産のコントロールや資本の共同所有、共同生産と生活上の相互扶助の統合等、多様な考え方が生み出された。そして、以上のような労働者のアソシエーションを基盤として、投下資本の収益性に駆られ、営利動機によって暴走することのない企業のあり方やメンバー間の平等な権利を基礎とした民主主義的社交の場が生まれ、労働や生活に身近なところからの公共空間の形成といったことが構想されていたのである。

藤井敦史「社会的連帯経済とは何か」『社会的連帯経済』

ヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論』を読むと、ヨーロッパ19世紀における社会の変化がどんなものだったかを感じとることができる。
19世紀の前半にまずは、パサージュが大量生産、大量消費の大衆消費社会の幕を明け、半ばになるとその舞台は百貨店が取って代わる。モードが生まれ、人びとは自分を売って、商品を買う者となる。

ボードレールは、とくに最晩年に、自分の著作があまり成功しないのを目のあたりにして、ますます自分自身を売りに出した。彼は、自分の作品に自分自身をただ同然で投げ売りし、そうすることで、詩人にとって売春が不可避であるとみずから考えたことの正しさを、最後まで身をもって証明したのであった。

ベンヤミン「J ボードレール」『パサージュ論2』

労働者であり、消費者であることは二重の意味で搾取される者になることかもしれない。自分の時間を売り、そのお金で買ったもので自分の時間を浪費することになる。人びとはその時代にはじめて大衆になったのだとベンヤミンはいう。

それがヨーロッパの19世紀だ。

民衆の自律の夢

冒頭の引用は、そんな大衆消費社会が誕生した19世紀に、同時にそれに対抗するオルタナティブな経済社会が検討されていたことを示している。
労働者たちが自分たちで共同の資産=コモンズを共有し、共同で活用して、共同の財を得る。ただし、新自由主義的な資本経済のように飽くなき利潤の追求を目指すようなことはしない自律的で民主的な組織の形態が模索されていたのだという。

最近もweb3の文脈でDAO(Decentralized Autonomous Organization:分散型自律組織)といったキーワードが取り沙汰されていたり、ヨーロッパにおけるミュニシパリズムの運動のなかで用いられるワーカーズコープのしくみが、ようやく日本でも労働者共同組合法ができたことで可能になったりしているが、ようは市民革命と産業革命の結果あらわれた大量生産・大量消費の市場経済に対するオルタナティブは、それがあらわれたときから、市民たちの自律の夢として検討されてきたというわけである。

中央集権的な社会モデルと、自律分散型の社会モデルは、振り子のようにつねに互いに相手のベクトルを自分の側に引き寄せようとする。しかし、その引き寄せようとする力そのものが相手側の動きを可能にしているようでもある。

ウェルビーイングの夢から切り離された成功者のくつろぎ空間

ちょうどその当時書かれたエミール・ゾラの小説『ボヌール・デ・ダム百貨店』は、まさに大量消費社会の主要な機械である百貨店が、大量の消費者を生み出しながら、それまであった専門店を破滅に追いやりつつ、自身はどんどん巨大化していく様を描いた作品だ。

「はたから見れば、滑稽そのものだろうよ、破産者がこんなに連なって行進しているんだから……それに、百貨店によって破産に追い込まれる者はまだまだ続くだろう。ならず者どもはどんどん売り場を増やしている、それ花だ、夫人帽だ、香水だ、靴だとな、他にも何かあるか? そうそう、グラモン通りの香水屋グロニェも追い出されそうだ。わしだって、ダンタン通りの靴屋ノーのとこで10フランも払って靴を買わん。百貨店という疫病はサン=タンヌ通りにまで蔓延し、羽や花を扱っている造花屋も、帽子じゃ名の売れたシャドゥイ夫人も残念だが2年ももたないうちに一掃されてしまうだろう……その後も、こうした輩はどんどん出るし、ずっと続くさ! 近所の小さな商店は一軒残らずなくなるだろう。キャラコ売りめ、石鹸やオーバーシューズを売り始めたと思ったら、よし、今度はフライドポテトも売ろうと意気込んでいやがる、まったくもって、この世は狂っている!」

エミール・ゾラ『ボヌール・デ・ダム百貨店』

これは中央集権的なモデルが自律分散型のモデルを駆逐していく話である。
新しいモデルが従来の商習慣を壊滅的に過去のものとして置き去りにし、それと同時に買い物し続けなくては死んでしまう消費者を大量に生み出した。

次にムーレは正札制度を賞賛した。流行品店の大革命はこの着想に端を発したのだ。昔ながらの商店、つまり小売店が呻吟しているのは、正札制度から始まった安売り合戦に耐えられないからだ。今や価格競争は大衆の監視下で行われ、遊歩道に並ぶショーウインドーも価格を掲げるようになり、どの店もバーゲンをして、ギリギリの薄利で我慢している。長年にわたる生地を仕入れ値の2倍で売るという商慣習も暴利を貪ることも、もはやありえなかった。今の流行品店の商法は、全商品から一定の利益をとり、その利益を商売が円滑に回転するように投入するので、正々堂々と商売を行えば、それだけ資産も増えるのだ。驚くべき進歩ではないか? これが市場を変革し、パリを変貌させているのだ。いうまでもなく、この進歩は女性の衣服に対する関心と買い物をしたいという気持ちの賜であった。

エミール・ゾラ『ボヌール・デ・ダム百貨店』

成功する者とそれ以外の者が生まれる。それはいまも変わらない。成功者としての巨大プラットフォーム企業をどうにかしようというのがweb3にかけられた夢だろう。
しかし、web2が生まれた当初の誰もが創造する者になる時代という自律の夢が、その技術におけるリテラシーに長けた者に成功者としての地位を約束したように、web3の自律分散の夢も同じ道を辿らないとは限らない。当たり前のこととして、技術が誰もが使える可能性をもつ分散型であるということと、それを使いこなすリテラシーには平等とはほど遠い差が生まれることは、同時に成立するのだから、自律分散が夢と消えるのはまるで不思議ではない。

かといって、持つ者が必ずしも常に成功し続けるのかというとそうでもなさそうだ。次の引用における「くつろぎ」(これは倦怠とも言えるだろう)は、まさに成功した者が陥る袋小路を示している。

最近〔19世紀〕の中頃になると、市民階級は、自分たちが解き放った生産力の将来について考えるのをやめてしまう。……「くつろぎ」は、世紀中頃のブルジョワジーがものを楽しむときの典型的な態度であるが、この「くつろぎ」なるものは、彼らの想像力のこうした衰退と密接に関連していて、「自分たちの手のなかで生産力が今後どのように発展していくべきかをまったく知らなくてよい」気軽さと一体を成している。……子どもを授かるという夢は、ものの道理が一新されて、子どもたちがいつの日かその新たな道理に従って暮らすか、将来その道理のために戦うべきだという夢に貫かれているのでなければ、貧弱な刺激剤にすぎない。子どもたちはいつの日か「よりよき暮らしをする」であろうという「よりよき人類」についての夢すらが、子どもたちがよりよき本性のもとに生きることになろうという夢と根本において同じものでないとしたら、シュピッツヴェーク〔画家。小市民の生活を皮肉とユーモアで描く〕的な幻想でしかない。

ベンヤミン「J ボードレール」『パサージュ論2』

「よりよき暮らしをする」、いまの流行りの言葉で言い換えればウェルビーイングの夢を、くつろぎのなかに閉じ込められたブルジョワが見ることはない。

とりとめなく書いてみたが、19世紀の変化に目を向けることでいろんな学びがある。


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