見出し画像

1.噴水の街-2.サントン人形 en PACA

コートを脱いだまま、上はシャツ1枚でホテルを出る。妻もさっきまで着ていたカーディガンを脱いで、ノースリーブのワンピース1枚になっていた。ワンピースの生地は、白地にさまざまな古いヨーロッパの職人が使っていた道具が淡いブルーとグリーンを使った線画で小さくいくつも描かれたものだ。腰のあたりを細い布のベルトでしぼるデザイン。彼女はまぶしい陽射しを避けるように、サングラスをかけ、帽子をかぶった。
シャツ1枚でもすこし暑いくらいの強い陽射しが降りかかる。しばらく旅行にこれる状況ではなかったから、ひさしぶりのヨーロッパになるが、ローマに同じ時期にいったときもこんなに暑くはなかったはずだと思う。シャツの袖をまくりながら思う。まだ4月なのだ。

エスパリア通りをさっき来た方角とは逆にすこし進み、聖エスプリ教会のある角を曲がる。古く見えるが、18世紀に建てられた教会だ。ほとんど装飾がない壁面の上の方に壁の一部に同化したようについた時計が、この建物が建てられた時代を理解させる。英国王立協会のロバート・フックが振り子式に代わるゼンマイ式の時計を発明したのが1654年、オランダ人で後に英国王立協会の外国人フェローともなるホイヘンスがはじめて懐中時計をつくったのが1675年である。それを皮切りに時計技術が進歩するのが18世紀初頭である。つまり、有名なプラハの天文時計のような大掛かりな機械仕掛けの時計でなく、こんな風に薄っぺらな時計が一体化したように壁にはりついた建物は18世紀以降のものだということになるのかもしれない。

それでも、この教会を古く見せているのは、その石の色のせいではないだろうか。フランスは地方ごとに建物の色が違う。その地方地方で建物に使われる石が異なるからだ。例えば、パリの街は地下から掘りだした石灰岩を使っているから白い。ストラスブールの街は多くの建物が木組みで石を使ってないから色とりどりだが、先のプラハと同じくらい有名な天文時計がある大聖堂は近くのヴォージュ山脈から切りだした砂岩の赤茶色をしている。トゥールーズがバラ色の街と呼ばれるのは、資材に適した石が近くになく、テラコッタレンガを使っているからだ。そして、ここ、エクス=アン=プロヴァンスの街は黄色い。それが強い陽射しをより強く感じさせるし、乾いた印象を与えて建物がすこし朽ちたようにみせる原因かもしれない。

画像1

脇の登り坂になった通りを進み、市庁舎のある広場の方へと向かっていく。前に来たときは広場にちょうど市がたっていて、色とりどりの野菜が売られていた記憶がある。今日もやっているだろうか。前に来たときの曜日など覚えていなかったので、行ってみないとわからない。

坂道の途中で、小さな人形をたくさんショーウィンドウに並べた店が目に入る。ショーウィンドウの上の白い看板には深い緋色で"SANTON DE PROVENCE"の文字。"ARTISAN SANTONNIER"とも書かれている。プロヴァンスの伝統であるサントン人形屋だ。
サントンとはプロヴァンス語で「小さな聖人」を意味する"santoùon"に由来すると聞く。サントン人形が生まれたのは18世紀の末のことで、フランス革命後、カトリック教会が閉鎖されてしまい、敬虔な市民は教会に行けなくなってしまう。17世紀頃からプロヴァンスではクリスマスには、クレーシュ(crèches)と呼ばれるキリスト生誕の像を教会に見に行く習わしがあったが、それもできなくなってしまい、代わりに各家庭で小さな像を飾るようになったのが、サントン人形のはじまりだったという。

前に来たときはサントン人形が売っているのを見ても何も感じなかったが、いろんな施設が閉鎖され利用できないということがどういうことなのかさんざん経験してしまったいまはサントン人形を見る目がすこし違っていることに自分でも気づく。ふたたび、このサントン人形を目にしている自分になんとなく違和感を感じたのだ。18世紀末の人びともふたたび教会でクレーシュを見ることができるようになったとき、どう感じたのだろうかと思った。代替品であるサントン人形が家にはあるのに、わざわざ教会でクレーシュを目にするようになったとき、どんな感情がわいてきたのだろうか、と。


基本的にnoteは無料で提供していきたいなと思っていますが、サポートいただけると励みになります。応援の気持ちを期待してます。