見出し画像

詩と科学の重なるところ

去年は何冊か、これは読んでよかったと思える本に出会ったのだけど、その中でもエリザベス・シューエルの『オルフェウスの声』は1、2を争う1冊だ。

この本が扱うのは、プロセス、生成のプロセスとしての言葉だ。
何か静的に定義的に記述する科学や論理の言葉というより、自然の、神話の生成する様を詠う詩人の言葉である。「我々が追おうとしているのは」、「ネイチャーでもヒストリーでもなく、むしろナチュラル・ヒストリー、言語の自然史とでも言うものに近い何か」だとシューエルはいう。

とはいえ、シューエル自身、「人間という有機体、この思考を恵まれた肉体には2種類の思考をという選択肢などない」とは言うとおり、その2種類の言葉は本来分けられるものではないのだろう。「ただ1種の思考あるのみで、有機体全体がそれに沿って働く」のであって、本質的にはひとつの言葉だと言っていいのかもしれない。

壮大なる学と知の回復

この新と旧の、科学と詩の二重性こそがベーコン全活動の核心にあるものなのだし、この故にこそベーコンは一貫してそれを知の回復として語り、改革などとは言うことがないのである。

というように、 シューエルは、実験科学の道を切り拓いたともいえるフランシス・ベーコンにさえ、科学と詩の二重性をみる。そして、それを失われた知の回復としてみていたことをシューエルは強調する。

"Homo nature minister et interpres"、「自然ノ解釈者ニシテ自然ノ僕」という意味の言葉が代表作『ノヴム・オルガヌム』の冒頭に示されているが、この解釈者としてのあり方に、科学者的な姿勢と詩人的なそれの両方が見られる。そして、ベーコンはその両方を備えた知のあり方を失われた知として回復しようとしていたのである。

『ノウム・オルガヌム』の序でベーコンはみずからの任を「かくも壮大なる学と知の回復」とし、かつては手中にされながら忘れられるか使われなくなるかした何かを取り戻す「大革新」としている。

ベーコンはこの回復される壮大なる学と知を、人間の精神と自然が交渉に関する知であると考えていたようだ。

『大革新』の「序」では自分自身を指して、「地にある何物より、少なくとも地に属す何物より尊い人間精神と事物の自然との交渉が何としても元の完全な状態にされ得るものか、あらゆることをやってみなければならないと考える人間」と言っている。

人間の精神と自然との交渉が容易になり、人間が「自然ノ解釈者ニシテ自然ノ僕」状態を取り戻すこと。ベーコンはそれを目指したのである。

オルフェウスの末裔たち

このベーコンも含む、詩の言葉と科学の言葉を分離しない言葉を信じた詩人たちを、シューエルは、オルフェウスの末裔たちとして扱う。

そのうちのひとり、18世紀、ドイツのロマン派詩人ノヴァーリスの作品『サイスの弟子たち』に語られるこんな場面は、ベーコンが回復しようとしていた知の有り様だったのかもしれないと思う。

自然研究者と詩人は、ひとつの言語を用いることによって、つねにひとつの族であるかのようにふるまってきた。自然研究者が全般的に蒐集し、整然たるおおきなまとまりとなるよう並べて見せたものを、詩人は手を加えて作り変え、人間に心を養うための日々の糧や必需品とし、そうして、あの広大な自然を細やかに分け、さまざまの好ましい小自然を形作った。

ひとつの言語を用いる科学者と詩人のことを描くノヴァーリス。

そのノヴァーリスのオルフェウス観について、シューエルはこんな風に評している。すこし長いが引用する。

ノヴァーリスにあってはオルフェウスははっきり詩と哲学を持って表している。「哲学者がみずからオルフェウスたらんと決めて初めて、全ての企てが秩序化される、上下がきちんと構成された輪郭画然たる規則的かつ有意義なあれこれの分類がおさまる--つまりは真の諸科学分野におさまるのである」。一方でオルフェウスは詩でもある。「彼ら[詩人たち]はみずからがいかなる力を揮えているものか、世界がいかに彼らに従うよう命じられているものか、なお理解していない。岩や森が妙音に和し、詩人たちに馴らされては、飼い馴らされた動物が我々の命じるまま動くように動くというのが嘘だと言えようか」。そしてここで神話誌の言葉で言われていることが他の場所ではもっと堅い理論の言葉で反芻される。「科学のあらゆる分野の完成された形式は詩的でなければならない」とか、「詩が哲学への鍵、哲学の目的、哲学の意味である」とか、とかである。

オルフェウスを通して、ノヴァーリスの中で詩と科学、哲学が重なりあう。もともと、それはひとつのものなのだから、「科学のあらゆる分野の完成された形式は詩的でなければならない」のだろう。

こんな風に詩と科学を重ね合わせてみるノヴァーリス。『サイスの弟子』からもう一箇所引いておこう。

さて、かれがこうした原現象の観照にすっかり没入すると、新たに生じてくる時空のなかで、自然の発生史が、壮大な劇のように眼前に繰りひろげられていきます。その果てしない液体のなかに沈殿してできる凝固点は、どれも、この思索家にとっては、愛の守護霊の新たな啓示、「汝」と「我」との新たな紐帯となるのです。こうして、内面に展開する世界史を丹念に記述していくことが、真の自然論なのです。つまり、思索家の思考世界の内的脈絡を通じ、またそこ思考世界と宇宙との調和によって、ある思考体系がおのずと発生し、宇宙の忠実な写し絵、雛形となる、ということなのです。

自然の発生史をみずからの内面に調和させる思索家。ここにノヴァーリスやベーコンが想像する、回復すべき知のあり方の原型があるように感じられる。

隠喩的思考が働く背景にあるもの

オルフェウスの末裔の系譜はさらに続く。最後に紹介するのは、20世紀初頭のオーストリアの詩人リルケのことである。詩人の興味の守備範囲に驚かないだろうか。

自分が星について、花、動物について、生命のあらゆる仕組みについていかに無知か嘆き、「自然科学と生物学の本を読み、講義を聞きに行こう」と殊勝な決心をしているのは1903年、1904年のことである。後になると計画はもっと具体的で、「それでは夏学期には大学に行って、歴史学、自然科学、生理学、生物学、実験心理学、少しは解剖学等々も学ぼう」とある。注に付記して曰く、「グリムの辞書を忘れないこと」、と。

こんな風に様々な観点から自然に関心を抱くリルケを、シューエルは「彼は成長と変化を理解していると評する。

「もし我々が自身の成長の法に則ってさえいれば」とか、「生命というよりかは自己変容の謂だ」とか言うのである。我々自身の豊穣さを敬わねばならないが、それはそれが体のであろうと、心のであろうと同じである、という言葉は殊に美しい。

そうなのだ。美しいのだ、このように自分自身の心の動きも、身体の変容も、そして、自然なものも人工的なものも含めて世界で起こる事柄を生成のプロセスとして見る見方は。

科学的に考える前にまず詩的に捉えてみること。結局、それが同じことなのだとしたら、まずは詩的な自分の心の動きを大事にしたほうがいいと強く感じる。

1つ前の「隠喩と価値創造」で、遠く離れた2つのものをつなぎ合わせる隠喩が新たな意味=価値を生むために必要な思考であることを書いた。
では、実際にどうしたら隠喩的な思考が働くかといえば、それは言葉の背後にあるものを身体的・感性的に感じ取った記憶に残っているその感覚を頼りに、論理では、あるいは常識ではつながらないもの同士の類似、共通点を見いだすことによると思う。結局、この詩的な感覚が動かなければ、隠喩的な思考、行間力ははたらかない。詩というものの価値をあらためて、そんな点に見いだすことは今だからこそ大切なことだと感じている。

そんなことをこのシューエルの『オルフェウスの声』を思い出しながら考えてみた。

#詩 #発想 #隠喩 #生成

基本的にnoteは無料で提供していきたいなと思っていますが、サポートいただけると励みになります。応援の気持ちを期待してます。