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隠喩と価値創造

集めた情報から新しい価値を創造する。そう、見つけるのではなく創造。
情報の入手の仕方はリサーチでも、ワークショップなどでのアイデア出しでもいい。とにかく集まった情報を前にして、そこに存在しなかった意味=価値を、そこにある素材から生みだす。いつも思うんだけど、この錬金術的ともいえる手練手管はなかなかその業を伝えづらい。

2つのものを飛躍でつなげる

そんな観点で、スティーブン・カーンの『空間の文化史』で、マルセル・プルーストが鉄道というアレゴリーを使って彼の隠喩についての考え方を説明している文章が紹介されているのだが、それがまさにKJ法を発想法として使う際のポイントとも重なると思うので、ここでちょっと考えてみたい。

まず、カーンは、プルーストが自動車での旅行の方が乗合馬車の伝統を引き継いだ本物の旅だと考えつつ、「駅から駅へと飛躍し、出発と到着の違いを実に色濃く際だてる」鉄道のほうを好んだことを紹介した上で、こう書いている。

鉄道旅行はひとつの隠喩のごときものであって、隠喩のなかで、鉄道は「遠い2つの土地の個性を結びつけ、いわば私たちをひとつの名前から別の名前へと連れていってくれた」。列車旅行は失われた時を取り戻すためのひとつの手がかりであった。

なるほど、こう捉えると、確かに駅間の道程をほぼ体験することのない鉄道の旅は、荷物がある地点から別の地点に運ばれるのと同様、意味があるのは出発と到着の両地点だけで、間の文脈などはまるでない形で2つのポイントがなかば強引に結びつけられる。自動車での移動がスピードの違いこそあれ、徒歩での移動や自転車の移動と同様に間の道程も含めた体験である--少なくとも運転者にとっては--のとは対照的だ。

間の体験がないから飛躍がある。
隠喩もこれと同じだ。隠喩的なつながりというのは、体験的につながっているもの同士のつながりではない。むしろ、通常の体験では起こりえない連結が隠喩的なのだろう。

プルーストはこんな風に言っているそうだ。

「真実が--それに生もだが--私たちの手に入るのは次の場合に限られる。つまり、私たちが、同じひとつの特質を2つの感覚とつき合わせることによって、2つに共通の本質を抽出し、2つをひとつの隠喩のなかで結び合わせ、結果として、結びついたそれを時間の偶然性から解放させることができるときだけなのだ」。

通常の体験では結びついていない2者をなかば強引に、飛躍をもって結びつけた際に見つかる共通の本質。ここで言及される隠喩的な思考こそ、KJ法でデータ同士のグループを作る際に行う必要がある頭の働かせ方だ。

前(「情報の行間を読んで発想力を高める」)に「行間力」という言い方をしたけど、プルーストが、芸術的な真実(プルーストによれば、それは生そのものでもあるのだろうけど)を見つけるためのものとする隠喩的な思考こそ、リサーチを経て集めたデータから、データそのものには明示されていない隠れた真実を発見するための頭の使い方に他ならない。

言い換えると、たぶん、こんな発想の方法ということになる。

プルーストの最も有名な芸術の定義は、隠喩が経験のある「遠い個性たち」を結びつける、その結びつけ方に集中している。

経験的に遠いもの同士をいかに結びつけられるか?だ。

不可能なものの結合

『スタンツェ』でジョルジュ・アガンベンはこんな風にアリストテレスの隠喩(メタファー)観を紹介している。

アリストテレスは謎を、「不可能なものを結びつけること」と定義したが、それは、メタファーがあばきだす意味作用の核心的なパラドックスをうまく言い当てている。「意味すること」とは、もともとは常に、「不可能なもの」の「結合」のことである。

不可能な結合から意味が生まれる。
このアリストテレスの意味作用そのものがメタファーから生じるとの考えは興味深い。ようするに、日常的につながっているものからではなく、むしろ、非日常的なつながりから、意味あるいは価値は生じるというのだ。

不可能なもの同士が結びつくと謎が生じるが、その謎にこそ意味の芽生えはある。哲学=フィロソフィーがそもそも「知ることを愛する」という意味ということも踏まえた上で、謎という探求と意味生成をこのような形で結びつける考え方は、発想だとか、創造だとかということを考える点でとても示唆的だ。

まさに、このアリストテレスのメタファー観は、意味や知の対象がはじめからお膳立てされているかのような錯覚を抱きがちな現代の知的姿勢の危うさを教えてくれる。ここで示されているのは、意味や知は、出来上がったプロダクト状態のものを受け取るようなものではなく、DIY的にみずから生成するものだということだ。

人間の本質と世界を形成する芸術家

ここまで辿り着くと、あらためてエルネスト・グラッシが『形象の力』で芸術家の役割というものをこのように描いていることの意味も、異質なもの同士を結合する隠喩という観点を通じた見方が可能になる。

芸術家は常に新たな可能性を示す緊張した現実の証人であり、人間の本質と人間の世界を形成する挫けることなき精神の自由の証人であり、あらゆる解釈済みのものと制度化されたものの否定者である。この意味でボードレールは特殊なアクセントを置いて〈新しさ〉の機能を顕彰したのだった。〈新しさ〉は驚愕をよびおこし、不安に陥れる。というのもすでに解釈済みのものをもっと遠く地平の向こうへと押しやり、疑問を掻き立て、ファンタジーを刺激するからである。

「すでに解釈済みのものをもっと遠く地平の向こうへと押しやり、疑問を掻き立て、ファンタジーを刺激する」のは、どれも、プルーストやアリストテレスのいう隠喩のもつ力によって実現可能なものだ。そのことによって〈新しさ〉は生じる。

それゆえ、芸術家が人間の本質と世界を形成するために行う活動は「あらゆる解釈済みのものと制度化されたものの否定」となる。そして、そうなる方向に、隠喩的な働きは、あるものと別のあるものを、ありえない形でつなぎ合わせる。ただし、デタラメにつなぎとめるのではなく、あくまで隠れた共通点を浮かび上がらせる形で。

結局、創造とか発想とかを行うためには、こうした隠喩的結合を見つけるための業を磨いていく必要があるのだろう。

そのためには、

1.自分の狭い視野に収まらない範囲に目を向けて、様々な情報に接すること
2.触れた情報の背後にあるもの(なぜ、情報が示しているような状態が生まれたか、それを生みだした要素は何か)をちゃんと探る視点を働かせること
3.そうして集め、みずから解釈したことを、あとで取り出しやすい状態を作っておくこと

をしておくと、隠喩的な思考を働かせやすくなる。行間力が付く。ようするに、日々の準備、情報のアーカイブが自分自身の側にないと、行間力ははたらかないということ。

日々の繰り返しのトレーニング、知の蓄積が結局、現代における錬金術を可能にするのだと思う。

#隠喩 #発想法 #KJ法 #創造 #デザイン

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