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貧困育ちの不良少年が、国会議員になって目指す「世界平和」


はじめに

田中渉悟と申します。30歳です。

ジャーナリストの田原総一朗さん「田原カフェ」というトークイベントを開催しています。

10代から田原ファンで、猛勉強して田原さんの母校・早稲田大学に入学しました。

在学中、田原さんが主宰されていた塾の門下生になり、卒業した現在は一緒にお仕事をしています。

田原総一朗さん(左)と私(右)

▼過去の開催レポートはこちら

田原カフェは2022年の2月から始まりました。

月に一度の頻度で、これまでに29回(2024年5月現在)開催しています。私は企画責任者として会を運営し、当日は進行役も任されています。

会の大きな特徴は「参加対象を若者に限定している」点です。

10代から30代前半までの参加者と、90歳の田原さん、そして様々な分野で活躍するゲストをお迎えし、世代を超えた熱のある対話が繰り広げられます。

「マスター」の田原さん(中央)の隣で進行役を務めています(左奥)


中谷一馬さん来たる

5月の田原カフェは、衆議院議員の中谷一馬さんをお招きしました。

中谷一馬さん(右)

ゲスト:中谷一馬さん(衆議院議員)

1983年生まれ、神奈川県川崎市出身。

貧しい母子家庭で育ち、中卒で社会に出て一時期は不良少年(ヤンキー)になる。

その後、一念発起して通信制高校で学び、21歳で卒業。

ベンチャービジネスにも携わり、東証プライムに上場したIT企業(株)gumiの創業に執行役員として参画。

その後、政治の世界に挑み、元内閣総理大臣・菅直人氏の秘書を経て27歳で神奈川県議会議員に当選。

議員活動の傍ら、慶應義塾大学経済学部通信課程に進学し、後にデジタルハリウッド大学大学院にてMVPを受賞し首席で修了。DCM(デジタルコンテンツマネジメント)修士号の学位を取得。

2017年に衆議院議員選挙に初当選し、現在は2期目。ITから子どもの貧困まで、幅広い政策に関わる。

著書:『セイジカ新世代』(幻冬舎)
中谷一馬さんX(Twitter

中谷さんは立憲民主党の所属で、当選2回の若手議員です。

かねてから田原さんが一目置いており、『朝まで生テレビ!』など番組にもたくさん登場されています。

貧困な母子家庭で育ち、中卒から不良少年を経て国会議員になったという経歴と、ITベンチャーの(株)gumiの役員も務めたビジネス経験は、永田町の中でも異色です。

中卒で社会に出た中谷さん

決して恵まれた出自ではなく、道を外れた時期もあった中谷さん。遠回りをして行き着いた先が、どうして政治家だったのか。

当日の対話の様子をまとめました。よろしければ最後までお付き合いください。


身近にあった貧困と暴力

20名ほどお集まりいただきました

田原さんの「どうして政治家になったのか」という質問から対話が始まりました。

中谷さんは幼少期から世の中の「矛盾」に苦しんできました。

父親がとても暴力的な人で、DVどころではなく、日常的にどこでも暴力行動を繰り返す人だったのです。

「父親は家の中では母に暴力を振るい、外でも誰とでもケンカをしているような人でした。3歳の頃、血まみれになった母親の前に立ちすくんで『これ以上お母さんを叩かないであげて』と父に向かって言ったこともあります」

幼少期の壮絶な経験を語る中谷さん

中谷さんの両親は小学校5年生の時に離婚。お母さんが中谷さんと妹さん二人を養うことになりました。

日中はパート、夜は水商売で、朝から晩まで働き続けたお母さんは、ついに体を壊して倒れてしまい、生活保護を受けることになります。中谷さんが小学校6年生の頃でした。

「母の代わりに働こうと思っても小学生には家計を支えていく力もなく、子どもはどれだけ努力をしようと思っても自分の力では乗り越えられない壁があります。本来はもっと政治や社会が手をさしのべる仕組みが必要だよなと思いました」

子どもは生まれてくる家庭を選ぶことは出来ません。「親ガチャ」という言葉もありますが、中谷さんも過酷な境遇で生きることを強いられたのでした。

そうした中で「死生観」が幼少期からあったと語ります。

「小さい頃、母も働きに出ているのに、父も外に出てしまい、目覚めたら誰もいないことがありました。そんな風に一人になってしまった時、子どもなので寂しいから泣くわけです。 でも泣いても泣いても父親も母親も帰ってくるわけでもなく、誰かが来てくれるわけでもない。そんな時にふと『このまま死んでしまったらどうなるんだろう』と、そんなことがよく頭に浮かんでいました」

「死生観」が常に頭に浮かぶほど壮絶な幼少期が後に政治家の原点に

問題だらけの家庭と、十分に助けてくれない社会に対して感じたおかしさ。そして幼い頃から身近に感じていた「死」。

この強烈な原体験が、後に政治家になるうえでの原点になるのです。

不良少年になるまで

中学生になった中谷さんは「自分が家族を支えていかなきゃいけない」と、芸能関係の仕事を始めます。

少しずつドラマやCMにも出させてもらえるようになり、そのまま進学せず、一時期は本格的に芸能界で生きていくことを模索します。

ところが、中谷さんを大きな挫折が待っていました。

地域の不良に絡まれて大ゲンカになり、ドラマのレギュラーの仕事がボツになってしまったのです。

テレビドラマ『はぐれ刑事純情派』に少年犯人役で出演させてもらい、刑事役の藤田まことさんに捕まったりしていた頃のことです。
(中略)
ところが私はヤンチャが過ぎ、地域の不良に絡まれて大ゲンカ。顔中がボコボコに腫れ上がってしまったのです。レギュラーの話はボツにりました。あたりまえです。社会のルールをまるでわきまえていませんでした。

中谷一馬『セイジカ新世代 母子家庭・貧困育ちの元不良少年が国会議員になって新しい政界を創る話』(幻冬舎、2020年)p27

その後はアルバイトを転々としますが、どれも長続きしませんでした。

次第に、中谷さんの周りには同じような境遇の人たちが集まります。

当時の高校の進学率は95%以上。そこから外れた人たち同士でつるみ、傷をなめ合う刹那的な日々を過ごします。

中谷さんのお節介な性格もあってなのか、日に日にその数は増え続け、いつの間にか100人の不良少年グループのリーダーに押し上げられてしまったのです。

ヤンキー時代の中谷さん(右)
(ご本人提供)

不良とはいえいども、中谷さんは「かっこいい不良」を目指しており、タバコを吸ったこともなければ、自分より弱い人と喧嘩をしたこともないそうです。

暴走族になったこともなく、「バイクを買えるほどのお金がなかった」そうです。不良の世界にも経済格差が存在するのです。

売られたケンカは買うことはあれども、自分たちからケンカを仕掛けることはなく、争いを好まない「平和主義」な不良だったのです。

不良時代のエピソードを時に笑いを交えて語る中谷さん

しかし、不良少年として生きることにも限界を感じ始めます。

仲間がどんどん増えていくにつれて、中谷さんが理想とする不良像からかけ離れた人達が、グループに入ってくるようになります。

極めつきは、中谷さんが好意を寄せていた女性から裏切られた事件でした。

その女性が他のグループに拉致され「返してほしかったら一人で来い」と挑発された中谷さんは、一人で向かいます。

呼び出された場所に向かうと何十台ものバイクの音が轟き、金属バットや木刀などを持った集団が私を待ち構えていました。その時に発覚したのですが、なんとその女性もグルでした。私を呼び出す口実だったのです。
(中略)
闘争が盛んな環境に身を置く者は、「恩も仇もしっかり返さないと、ナメられたら生きていけない」そんな現実を突きつけられました。
そうした数々の出来事が、アウトローな世界がイヤになり、ヤンチャ時代を卒業するきっかけになりました。

中谷一馬『セイジカ新世代 母子家庭・貧困育ちの元不良少年が国会議員になって新しい政界を創る話』(幻冬舎、2020年)p31-32

不良生活に見切りをつけた中谷さんは、当時抱いていた疑問に向き合うようになります。

それは「不平不満を言っているだけでは何も変わらない」という漠然とした思いでした。

当時はラップが流行っており、世の中への怒りを歌詞に込めてリズムよく歌い上げるのがカッコイイとされていました。

しかし、中谷さんは不満を言っているだけの状態に満足できなくなります。

「働いても食っていけない経済状況や社会のサポートの欠如に対して、(周りの人が)文句を言っているだけなのが歯がゆくて『じゃあなんでやらないんだろう』と思ったし、『おれも何でやらないんだろう』って自問自答しました。そこで世の中のルールや予算を変えることのできる政治家になろうって思い至りました」

しかし、政治家になるために必要な学歴と社会人経験が圧倒的に足りません。

当時中卒だった中谷さんが「政治家になりたい」と語ると、誰からもバカにされてお終いだったのです。

そこで、中谷さんは不良の世界から足を洗うことを決断し、一念発起して通信制高校に入学します。

そして、当時ホステスをしていた彼女の影響で、バーテンダーとして本格的に働き始めたのでした。


ビジネスの才覚

バーで働き始めると、それまで手の届かない存在だった著名な人たちと毎日のように近い距離で接するようになります。

ヤンキーの世界で生きてきた中谷さんの視野は広がり、それまでいかに自分が甘ったれて生きてきたのかを痛感します。

社会人としてのイロハを叩きこまれながら、少しずつ仲間も増やしていきます。

バーテンダー時代の中谷さん(右)
(中谷さんご本人提供)

中谷さんは政治で世の中を変えたいと思いつつ、ビジネスの才覚も類まれなものがあったようです。

小さい頃から家計を支えることを考えるのが当たり前だったので、どうやったらお金が稼げるかを自分のアタマで考える習慣が身に付いていたのです。

そんな中谷さんを見込んで、ある投資家のお客さんから3千万円も出資を受けたこともあったそうです。

「そのお客さんから『おまえ自分の店持ちたいらしいけど、どんな店やりたいの?』と聞かれ『渋谷にこれくらいの物件が空いていて、こんなコンセプトで、周りに同じような店はないから流行ると思っています。同じように独立したい仲間がいるので、彼らも一緒にやろうと思っています』と言ったら『じゃあ出すよ』と3千万円をポンっと出してもらいました」

「あなたのどこを見込んで3千万円も出したの!」とツッコむ田原さん

「チャンスっていうのはいつ巡ってくるかわからない。だからこそ、常につかむ準備をしておくことがとても大事だということです」

やがてビジネスの分野でも頭角を現し、次から次へと若手起業家の仲間をつくります。

そして、今では東証一部に上場したIT企業・(株)gumiの國光宏尚さんに誘われて、創業期に執行役員として参画します。

中谷さんがビジネスで成功したことで手にしたもの。それは経済的な余裕と気持の余裕でした。

「小さい頃から『一馬はすごいケチだ』と言われてきました。ビジネスが上手くいっている時期に分かったことは、自分は『ケチ』なんじゃなくて、人に何かを与えられるほど何かを持っていなかったということでした」

ベンチャー企業にも携わったビジネスセンスの持ち主でもあります

生活保護を受けていたり、食うや食わずの頃には、自分のことで精一杯で、人に対して何かをすることは出来なかったのです。

ビジネスで成功し、改めて中谷さんは自分がどう生きたいかを自問自答するようになります。


それでも「政治」に行ったわけ

そして中谷さんは、ビジネスの世界で成功を続ける道ではなく、政治の道へと進みます。

「私にとってお金を稼ぐことは生きていく手段だったので、苦手ではなかったですが、あまり好みではありませんでした。もともとが貧乏だったので、お金を稼ぐのもある程度でよかったんです。ビジネスで何億円も稼ぐことを目指すよりも、政治の世界で貧困と暴力を根絶するために働いたほうが死ぬ前に満足できる人生になる気がしたんです」

そして元内閣総理大臣の菅直人氏の秘書を経て、27歳で神奈川県議会議員に初当選します。神奈川県政史上、最年少での当選でした。

会場からも質問が続々と

その後、2014年の衆議院議員選挙に民主党から挑戦し惨敗。2017年の「希望の党」選挙で立憲民主党から出馬し、初当選を果たします。

国会議員として、中谷さんの得意分野はデジタル政策です。

IT分野でのビジネス経験もあることから、最新のテクノロジーに精通しており、憲政史上初めて「チャットGPT」を使って国会で質問をしたことで話題を集めました。

2児のパパでもあり、子育て政策にも取り組まれています。

田原さんも一目置いている議員さんです


共存の困難さ

そんな紆余曲折の激しい人生を歩んできた中谷さんに、会場からも質問がたくさん出てきました。

ある参加者さんは「多様性」「共存」について質問しました。

「”アタマいい人たちの多様性”がある気がする。いろんな属性を持つ人が共存するためのリテラシーを共通認識できるのは、高学歴なアタマがいい人達に限られる気がする。共存はけっきょく、そのリテラシーを認識できない人を排除することでしか成り立たないような気がするが、果たしてそれは本当に共存なのか」

その質問者さんは自身でシェアハウスを営まれており、異なる社会的な階層にいる人、ちがった考えを持つ人同士がいかにして共存しうるか、いつも頭を抱えていました。

時には差別的で他者に歩み寄ろうとしさえしない場合もあるが、とはいえ、そういう人を排除して成立する共存状態は本当に共存なのか。これは社会全体にも当てはまるのかもしれません。

中谷さんは中卒からアンダーグラウンドな世界に身を沈めて、そこからビジネスを通じて名だたる成功者たちと交友関係をつくり、起業に参画し、政界に転じて総理大臣の秘書になり、国会議員になった稀有な人です。

そうして様々な世界を見てきた中谷さんだからこその質問でした。

メモを取る参加者さん
近い距離で目線を同じくして対話をします

「中卒の自分から見えた世界と、総理大臣の身近にいた時に見えた世界は全くちがう。同じ日本だとは思えないこともあるが、世の中に絶対的な正解なんてものは存在しない」

中谷さんは「寛容のパラドックス」(paradox of tolerance)を例にあげて、異質な人どうしが共存するためには「不寛容」にこそ向き合わないといけないと語ります。

寛容のパラドックスとはカール・ポパー(1902‐94)が提唱した「寛容な社会であるためには不寛容に不寛容でなければならない」とする言説です。

中谷さんは寛容のパラドックスをもう一歩深めます。

「なぜその不寛容をつくってしまったのか、その原因に向き合い続けないと世の中から争いはなくならない。僕自身はどういう人とも向き合い続けたい」

不寛容な状態を生み出す人にも向き合い続ける、これはとても忍耐がいることでもあり、誰もができることではありません。

しかし、中谷さんは色んな立場に自身も置かれ、色んな世界を見てきたからこそ、たとえ「不寛容」を生み出している人ともまずは対話をしたいと言います。

「生活保護受給者、アンダーグラウンドにいた人、総理大臣、上場企業の会長など、色んな人と原体験として身近にいれたことが強みだと思っている」

「そういった色んなレイヤーの人たちがどうやったら共存できるか、話し合いを続けて双方のストレスが無くなるか。その解を見出し続ける努力を続けたい」

この日もいろんな「問い」が飛び出しました

そして、不寛容に向き合い続けた先に中谷さんが「政治家として実現したいこと」は「貧困と暴力を根絶すること」であり、その先にある「世界平和」です。

中谷さんにとっては、得意分野のテクノロジー分野も、子育て政策も、それを進めることで全ての国民が豊かさを享受できると信じています。その先に、究極の目標としての世界平和を描いているのです。

とはいえ、社会は様々な考えや立場におかれた人たちから構成されます。そうした中で民主主義で合意を形成し、社会を前に進めていくには、対話が必要です。

時には「不寛容」と衝突することもあるかもしれませんし、自身がその矢面に立たされることもあるかもしれません。

「国会議員はマイノリティーでもある」と中谷さんは語りますが、その中でも異色な原体験を持つ中谷さんだからこそ、不寛容と向き合い続けることで実現できる社会があるのかもしれません。


まとめ

参加者さんからの質問にも真摯に答える中谷さん

この日は、中谷さんの壮絶な人生経験の話で盛り上がりつつ、昨今の政治動向の話にもなり、バランスのいい会になりました。

自民党の裏金問題が騒がれていますが、実は国会議員は高級取りのように思われながら、現実はそうではありません。

国会議員の年収は企業でいう年商のようなものであり、2千万以上の年収があっても、事務所の家賃やポスター代などの経費で大半が消えてしまうのが現実です。

とりわけ野党の国会議員は資金を集めるのがより大変で、「初当選時から貯金が減っている」というリアルな現実も吐露していただきました。

田原さんとツーショット

それでも中谷さんにとっては、政治家という生き方が自分にとって「ハマっている」そうです。

「社会の役に立っていたとしても、自分がハマらないこと、しっくりこないことは継続することは難しいし、やったとしてもそれが本物にならない」

「国会議員はお金は貯まらないし、ライフワークバランスは全く取れないし、めちゃくちゃしんどいんだけど、僕にとってはハマっている。これが本当にやりがいでおもしろいと思っている。この仕事に人生全力をかけてやっているので、世の中に価値を表現できているのかなと思います」

人よりも遠回りやいばらの道を歩みつつ、だからこそたどり着いた天職が「政治家」なのかもしれません。

参加したみなさんにとっても、この記事を読んでくださったみなさんも「こんな政治家がいるのか」と知ってもらうきっかけになったのであれば幸いです。

中谷さん、ありがとうございました!

ありがとうございました!

<参考文献>

中谷一馬『セイジカ新世代』幻冬舎、2020年


<撮影>

Photo:Yosuke SatoSachiko Yamazaki 








【初めて私のことを知ってくださったみなさま】

田中渉悟と申します。
フリーで対話のファシリテーション、企業向けのワークショップ、哲学対話の進行役などをしています。

X:https://twitter.com/tana_tana_sho

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