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職場の「二十億光年の孤独」

僕は、職場のデスクマットの下に谷川俊太郎の「二十億光年の孤独」をいれている。普段は、デスクが散らかっているから見えないのだけれど、たまに片付けをするたびに出てくる。これまでデスクの移動があるたびに、迷いながらも捨てられずに一緒に移動してきた。今やお守りみたいになっている。

この「二十億光年の孤独」は、就職後しばらくして、職場とは違う言葉に触れられるようにしたくて、デスクに忍び込ませた。僕はあまり詩などに詳しくないのだけれど、「二十億光年の孤独」には大学自体の思い出と思い入れがあったから。

僕たちの通っていた大学は、山の上にあった。学生たちの間では、駅と大学のある山の上では気温が違うと笑い話になる。
駅の改札を大学側にでると構内へ続く坂道、階段、エスカレーターしかない。途中には、店も建物もない。大学以外は何もない隔離されたような場所。講義の合間にどこかへ行くことはほぼなく、構内で時間を過ごすことになる。

僕が二十億光年の孤独に初めて触れたのは、その大学の中庭。卒論の中間発表的なものを控えた僕たちは、中庭でダラダラと時間をすごしていた。僕は当時、単位がギリギリで、ほぼパンパンに授業が詰まっていたけれど、多分サボっていたんだろう。何とかなるだろうという甘えと、現実逃避で生きていた。この態度は、今もあまり変わっていない。

詩がテーマだと、「暗唱させられることもあるらしいよ…覚えてないし、いややわ~」という友人に、「じゃあ、何か読んでみてよ」とねだる僕。嫌がる友人が読んだのが「二十億光年の孤独」だった。

「人類は小さな球の上で/眠り起きそして働き/ときどき火星に仲間を欲しがつたりする」と読みだした途端、心打たれてしまった。別に読み方がすごいというわけではなかった。たどたどしかったし、特に感情が入っていたわけでもない。でも、その友人の声を通した言葉が持つ力のようなものに引き付けられ、内心動揺した。声に出すとこんなに違うのかと。

最近(?)、デスクを片付けたので、久々に「二十億光年の孤独」を読む。当時と今では好きなフレーズの場所が違い、それもまた面白い。職場で読んで、火星人もまた今頃ハララして、愚痴ったりめげたりしてるのかなぁ、なんて考えて現実逃避している。

しかし、谷川俊太郎は「二十億光年の孤独」で火星人に対して、「まつたくたしかなことだ」と体感しているが、いい年したおじさんになっても「まつたくたしかなこと」など感じたことがない。いつかそんな体験をしてみたいものだ。

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