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「演劇×坐禅ワークショップ」レポート

(このnoteは、ミュージカルインカレサークルS&DさんのOBOG会を対象に2023年に開講した「演劇×坐禅ワークショップ」のレポートです。2023年10月9日@中台地域センター)
↓S&Dさんについて

この度、講師として招かれ3時間ほど「坐禅・ボディワーク・表現・演技」をキーワードに参加者の方々とともに、坐禅の世界を様々な観点から実験的に探究しました。

苦行ではない安楽の坐禅−寛いでいられること

まず最初に坐禅の実際についてお話をしました。

一般的な坐禅のイメージは厳しさや苦行と結びついています。実際に参加者に坐禅のイメージについて聞くと「喝をいれられる」と言っていたように、どうしても緊張感と結びついているように感じます。

しかし私の主催する坐禅会では
バチんと叩くことでお馴染みの警策(きょうさく)を用いません。
伝統的な坐禅を体験してもらうのではなく、「坐ることの愉しさ」を感じてもらうことを第一にしています。
敷居の高い坐禅の入り口を広げるような活動で、「正しさ」よりも「やさしさ」「愉しさ」をキーワードとしています。

坐禅について宗祖の説明を引用すると

所謂(いわゆる)坐禅は習禅には非ず、唯だ是れ安楽の法門なり。

道元禅師『普勧坐禅儀』

意訳
いわゆる坐禅とは段階を踏んでメソッド的に習熟していく(禅定:心を一点に集中し、雑念を退け、絶対の境地に達する)ことを目指す坐りではなく、ただ寛(くつろ)いで、自分自身に落ち着いていられることである。

坐禅について説明すると長くなってしまいますので、以下に坐禅についてまとめた記事にありますので、こちらでご一読いただけると嬉しいです。

禅とは−

「坐禅」という名称上、禅についての説明を省くことは許されないだろうということで、「禅とはなにか」ということについて歴史的、文化的な抽象度の高い言葉としてではなく(長い話になってしまうので)、実践における「禅」とは何かについて私見を述べさせていただきました。

禅とは味わうこと、親しむこと

禅というと「集中」と結びついて説明されることが多いですが、私観としては上記のように「味わうこと、親しむこと」「味わっていられること、親しんでいられること」として説明したほうがしっくりきます。

追伸 -「集中」というのはむしろ「親しむ」「味わう」ことの後に起こる副次的な産物だろうと思います。

つまり坐禅とは「坐る」という一事を「味わい、親しむ」営みとなります。強制されて行われることではなく、坐るという一事と計らいなく遊ぶような

ボディワークとは−寛ぐとは頑張らないこと

それは通常のスポーツなどとも異なり、肉体を鍛えることを目的としたものではない。ボディワークとは、からだに努力や無理を強いることとは、およそ正反対のものであり、不自然で不必要な緊張を解き、長年つくり上げてきた望ましくない習慣や条件づけを解除し、からだが自然に本来の機能を果たせるようにするものである。

中川吉晴『ボディワークセラピー』

文明によって分離されてしまっているわたしたちの「こころ」と「からだ」をひとつにあわせ、全体性を再び手に入れること

『アレクサンダー式姿勢術』 訳者あとがき 北山耕平 (元『宝島』編集長)

頑張らないこと

「頑張れ」と言われて育ってきた私たちは「頑張らない」ことが難しいです
姿勢を正してくださいと声をかけたら、ほぼ全員が筋肉の硬直(頑張り)をもって姿勢を正すのではないでしょうか。

ボディワークが提唱しているのはむしろその逆で「頑張らない」ことではないでしょうか。むしろ「寛ぐ」ということなのかもしれません。
この点において私は「安楽の坐禅」と「ボディワーク」に強い親和性を感じます。

坐禅≠不動

一見、脚を組んで全くの不動のように見える坐禅の姿勢ですが、身体の内部の生命維持活動は決して留まることなく働き続けています。そして自然に行われる呼吸や身体の内部の動きに一切の干渉をせず、お任せをして(南無して)ただ傍観、耳を傾ける営み。

つまり究極的には坐禅とは動いていると言っても過言ではないでしょう。この認識で固体的で息苦しさのあった坐禅が、ダンスや表現の延長線のように自ずと活き活きと立ち現れてくるように感じます。

身体で味わう−身体で安楽する時間、恐縮しがちな私たち

どんなに頭で確認、理解するよりも、身体で納得する、体認をしてもらう時間として、坐骨で重さを感じるワーク、重さに委ね身体の不要な緊張を手放すワーク、背中合わせのワークを行いました。

首は長く高く
背中は広く豊かに
膝は前へ
足裏は地面へ
なんか、校訓みたいですね笑

「恐縮ですが、、、」
よく使うこの言葉の通り、身体も恐れ縮んでいることになれてしまっているから、まずはその張詰めを緩めてみる。

坐骨の説明をする筆者
些細な身体の変化に気づく
「左右の腕の長さが違う!!!」
重さを感じる
「寝てる側の人は屍(しかばね)になってください」
#屍の演技?
ペアに委ねて重さを感じる
「身体の7割が水分って、この人体は思ったよりも水分でできてますよね笑?」
予定にない思いつきで行った背中合わせのワーク
意識の薄い背面で相手の呼吸を感じる
「前側の意識はしやすいけど、横や背面の意識はどうでしょうか?」

坐るという表現(ダンス)

間違いなく今回の坐禅ワークショップで一番の実験的な坐禅の時間でした。
ミュージカルサークルということでこのワークを自然と受け止めていただける度量があるのではないか?と思って、準備していたワークでした。

これまでのワークの応用として「重さ」をテーマに、曲に合わせ即興でフリーのコンテンポラリーダンスを行い最終的に。結果的に。坐相へ導く。坐相という表現へ落ち着いてみる。という試み

めちゃくちゃ尖った試みです笑

臥位から重さを感じて動く
四足歩行をしてみたり
高さを出して腕の重さを感じる

ワーク後の坐禅−シェアリング

「外側の筋肉が緩んで坐骨に重さを委ねる感覚がわかりました。うまくは説明できませんが、構造的に坐っているような、、、」
「最初にやった坐骨に重さを感じるときよりも、力みがない状態で坐れました」
「お腹側も背中側も、緊張がないような感じで、ずっと坐っていられるような感じでした」
「すごい落ち着きました」
「ぜひまた体験したいです!」
「ペア側も力みを手放すことで揺れ方の質が変わっていくのが面白かった」
「ダンスの後の坐禅は何も頭に浮かんでこないで、純粋にただ坐っているようでした」
「これからもこういう時間を大切にしたいと思いました」

ありがたいシェアリングのコメントをいただけてこちらも安心しました。

まとめ-調身の奥深さ

坐禅の基本となる「調身」を一つ取りあげて様々な角度からそれを探究、参究していくことでさえ無限の面白みがある。いつも自分にとって新しい発見がある。

「仏道をならうというは、自己をならうなり。」

道元『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』 「現成公案(げんじょうこうあん)」

自分の身体のはずなのに案外自分の身体についてわかっていない私たち

坐禅を通して抜け落ちていた首から下の存在に気づき、改めて気づき統合し、全体性を持ったまるごとの身体(生命)として坐る

まるごとの身体(生命)を味わい親しむという姿勢を大切にしたいと改めて感じました。

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