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逆張りの人生

振り返れば自分は流行を毛嫌いするわけではないが、どちらかというと「逆張りの人生」を生きてきた。

みんながその道を行くなら、僕はこの道を行く

みんなが靴を履くなら、俺は雪駄を履く。

マインドフルネスというなら坐禅。

みんなと逆であることに誇りを持って、とても価値があることだと経験の上で理解していた。

まぁ、自分が逆張りするのはただの目立ちたがりであることは否めない笑

その逆張りの視点を学んだのは間違いなく小さいころからしていたサッカーで、
混み合った場所でもドリブルで打開するのではなく
自分はゆとりある逆サイドでパスを受けて展開していくことを主軸にプレイをしていたことがあるからであると思う

自分には1人で打開していくようなスキルを持っていなかったから、それが自分にできる精一杯のチャンスメイクだった

きっとこの下手は下手なりのサッカーをするという経験が、自分の人生観につながっているだと思う

You play with the cards you’re dealt… Whatever that means
配られたカードで勝負するしかないのさ、それがどういう意味であれ

スヌーピーの名言

お坊さんでありながら会社員や学校の先生をする「二足のわらじ」というスタイルが収入の少ない寺院の僧侶の宿命であるが、収入は決して多くないが自分はそれでもただ僧侶だけで生活をしている。

地元の友だちも、周りの友だちも公務員や会社員として就職をしている。

周りと比べてこれでいいのかと思う自分もいるけど、逆張りに価値があると思う私の宿命なのかもしれない。

みんなと違うからこそ、その視点からのアドバイスを求められることも少なくない。

生きるのに疲れたり、身心に不調が生じたときに面白い視点を提示できる存在でいることが役目なのかと感じることもある。

今はまだ生活できる収入には結びついていないけど、逆サイドにはいつもチャンスや可能性に溢れていると信じている。

今の私は行き詰まりを感じる現代人と坐禅を通して自己の身体や、自己の内面と親しむ時間を共に味わい微笑むことを生きがいとして、生業としている。

それに坐禅にこだわるのも、現代人が日本の仏教と関わるタイミングが「弔い」だけであること、お寺とは「弔いの場」であるというイメージに対する逆張りともとれる。

仏教とは決して死者のために説かれる教えではなく、むしろ今を生きる人のための教えである
→葬式というのも死者のための供養ではなく、残された側が故人の死を受け入れ、これからを生きていく儀式という側面もあると考えている。


だから僕は仏教を弔いだけではなく、今を生きる人の教えであることを強調して、今日も逆張りをする。


そんなことを考えた 7月2日
同じく逆張りの人生を生きる腐れ縁幼なじみとのナポリタンランチ

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