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1枚の絵と対峙して思うこと

こんにちは。yukikon520です。

今回は先日友人と話題になった「1枚の絵の前で立ち止まる時、何を考えているか」について書いていきます。この話をした友人は、私の中学時代からの友人のうちの一人です。彼女は学生時代には絵を描いており、宗教画や人物画など、具象表現の油絵を好み、私は現代アートやインスタレーション、絵画ではパウルクレーなど抽象芸術を好んで見る傾向があります。美術が好き、という共通点がありながら、好きなジャンルが分かれる点が一緒に鑑賞していておもしろい点でもあります。

彼女と美術館に行くと、一緒に入場した後は互いのペースで鑑賞し、時たま館内で出会い、好きだった作品について話してはまた互いが見たい作品へ、とつかず離れず互いの鑑賞を楽しみます。

そんな彼女と話をしている中で共通して興味を持っていたことが最初にも書いた、

1枚の絵の前で立ち止まる時、何を考えているか

ということでした。

美術館にいるとよく見かけるこの光景ですが、絵の前で人は何を思っているのでしょうか。一点一点の鑑賞に時間をかける人ももちろんいますが、足を止め、長い時間作品の前に立つことは、たくさんの作品がある展示の中で限られた作品に絞られるでしょう。

この興味に対して、私自身が何に惹かれて立ち止まっているのか、長年うまく言葉にできないことがありました。色彩感覚なのか、その瞬間に作られた空間表現に感じることなのか・・・

そんな中で、今でも覚えているのが、イケムラレイコの作品の前で動けなくなった時の感覚です。

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《よるのうみ》 2003-2004年 ヴァンジ彫刻庭園美術館

2011年 東京国立近代美術館「イケムラレイコ うつろいゆくもの」より

今から約10年前の展示ですが、何がなんだか分からないままに作品が気になり、長い時間その場から動くことができなくなりました。誰もいない空間に、絵画と自分一人。その場から逃れられないような、自分の鼓動だけが聞こえてくる静けさと絵に吸い寄せられる感覚。この鑑賞の感覚が、友人との会話の中で鮮明に思い出されました。

その時の自身の心情や記憶が絵に重なり、共感したい時に立ち止まることが多いことに気づきました。そして、そこには共感を生む心情や記憶の共有を超え、作品の向こう側にいる作家の人間性や制作当時の心情を知りたいという”人間への興味”が含まれているように今では感じます。これは美術に限られることではなく、制作されたモノの裏側に潜む”人間への興味”なのだと感じています。

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