僕らが大切にしたい「価値観の多様性」の正体

医療系の研究施設で働いている。僕は短期転勤族だ。今の職場ではマンパワーを提供しながら、アドバイザー的なこともしている。けれども僕から指摘することはない。意識的にそう決めている。

僕の経験なんてしれている。直感的に見つけた指摘事項も、大概は仕方なくそうなっていることが多い。列記とした理由があるのだ。それを見破れないのは僕の思慮不足。故に少なくとも半年は黙ることにしている。その間に不具合ヶ所の物語を推測することで、思慮を深めているのだ。

もちろん求められれば応える。会議での選択肢を増やすために一意見を出したこともあった。僕には分からないことでも、問題を整理するために推測の過程を示すこともあった。けれども自分から「ここはこうした方がいいですよ」とは言わないようにしているわけだ。

それは施設の管理方法や作業の手順だけではない。僕らの職業は実験動物管理者だ。動物との在り方も常に問われている。それらに対する想いや思慮も、自分から率先して意見することはしない。

ただ、ここら辺のことを聞かれたことはない。おそらく想いは同じだとされているのだろう。あえて聞くまでもない問いなのだ。

たしかに僕は賛成派だ。そうでなければこの仕事も務まらない。だからといって、こちらに正義があるとは思ってはいない。逆もまた然り。価値観の多様性。まさにそれだと思っている。

この問いは二項対立で語られがちだ。賛成か反対の2択。けれども実際はグラデーションで、無数の正義がそこにはある。この業界に入って分かったことだが、両極とも一枚岩ではないのだ。それがこの問いを一層難しくしている。

たがそこに人らしさも感じる。規則性は無く、非合理で、自然の摂理とは距離を置いた存在。そんな人の姿には美しさも覚えるが、同時に自然の美しさからは離れていることには違和感も覚える。それは天動説における惑星のようだ。

もしもそうならば、この問いの解き方も同じであろう。「自分達が中心」という固定観念を探して疑えばいい。宇宙の中心は地球ではなく太陽と仮定する。それと同じように考えるのだ。つまり「人が存在するための生命システムではなく、生命システムが存在するための人」と仮定するのだ。さすれば辻褄の合うことも多くある。

生命システムが次の世代へと繋がり続けるには戦略が必要だ。起こり得る危機に対して防衛策を講じなければならない。リスクヘッジ。それが唯一で最も強力な防衛手段なのだろう。肉を切らして骨を断つ。片方を犠牲にして、もう片方が生き残るのだ。

海だけではなく、陸に暮らす者も現れた。空を制した者もいる。暮らす場所は地球全体に及んだ。それなら局所的な災害が起きても生命システムが途絶えることはないだろう。体を大きくした者がいた。小さいままの者もいる。植物が生まれ動物まで進化したが、あいかわらず微生物も健在だ。生命システムのリスクヘッジは多岐に渡った。おかげで当時の覇者である恐竜が滅びるくらいの天変地異に地球は襲われたが、生命システムが途絶えることはなかった。

人が誕生した。言葉を得た。深い思考を手に入れたのである。ここでもリスクヘッジは健在だ。考え方は様々。十人十色。西が好きな者もいれば東が好きな者もいる。思考が一極に集中することはない。

新規の薬もそうだ。それが現れれば必ず称賛する者と批判する者が現れる。使う者と使わない者に分かれるだろう。どちらかにリスクがあったとしても必ずどちらかは生き残り、生命システムが途絶えることはない。生命システムからみれば、全員が生き残る必要はないのである。

多様な価値観を生む土壌も完璧だ。影響するであろう環境もまた、多様な価値観で一極に集中することはない。多様な価値観が、次の多様な価値観を生むわけだ。

知能のばらつきもそうだろう。人のために生命システムがあるのであれば、その進歩のために知能の低い者は淘汰されても不思議ではない。一方で生命システムの存続ために人が存在しているのであれば、リスクヘッジ要因として知能の低い者も必要と思われる。0-100ではなくグラデーションで知能が分布されているのもそのためだろう。そこに優劣は無い。知能の高い者たちだけでは駄目なのである。生きているだけで平等に存在価値はあるというわけだ。

価値観の多様性を保つシステムも完璧だ。違う価値観を持つ同士は、ちょっとやそっとでは混ざり合わない。自身の価値観を守るためなら争いだって起こすのだ。ときには自身を守りつつ、相手を攻撃しては倒すだろう。全ては生命システムの存続のため。その視点から見れば、すべての人の想いや動きは規則正しく合理的なのである。

故に他人の動物に対しての考え方を聞いても「多様性が発現しただけ」とも思えるわけだ。冷たい言い回しに聞こえるかもしれないが、これは希望の言葉だと思っている。

人と人とはわかり合えない。それは各々が多様な価値観を持たされ、それを守ることも担わされてるからだ。ただ、このことに関しては普遍的である。多様性はない。全ての人に対してだ。いや、全ての生物個体がそうである。一切の例外もない。故にこのことに関する苦難は共感し合えるはずである。すべての人とわかり合える可能性がここにはあるのだ。

だが生命システムのリスクヘッジは強固だ。ここにも防衛策は延びている。システムの都合上、命や存在理由などの個体のアイディンティティに関わることに、価値観の多様性は生まれにくい。一極集中もするだろう。一種のバグとも言える。だがこれも価値観の多様性の保護に役立っているように思えた。

「自分達が中心」という固定観念を疑いづらくしているのは、個体のアイディンティティであり、このバグとも言える生命システムの仕様だろう。やはり人と人とはわかり合えないのである。

おそらく気付いてる人は多くいるだろう。命に関わること"だけ"に口を出さない人も、少なからずいるからだ。僕だけが気付いてるわけがない。気付けば分かるのだ。黙っているのが一番の正解だということも。故に僕も黙っている。聞かれても大人の対応をするだけだ。それが僕の価値観でもある。

「多様な価値観が発現しただけ」それは僕にもあてはまる。知っていても対処はできない。どちらにしろ生命システムのリスクヘッジから逃れることは不可能なのだ。

せめて知ること。それが唯一であり、ささやかな抵抗だと思っている。




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