「答え合わせ」に走りがちな私(たち)
答えのない問題に対して、答えを求めがちな私(たち)について、いろいろ思うことあり、書いてみました。
グライダー人間
最近、外山滋比古さんの「思考の整理学」という本を読みました。昔からその名前は聞いたことあったし、興味もあったけど、題名が堅そうだったので避けてました(^-^;
この本では、最初に「グライダー人間」についての記述から始まります。
やば、自分だな、これは、と思いました。
自由に書いていいと言われると、とても困っていたことを思い出しました。
必死になって、「書くべきこと」を探していたように思います。「書きたいこと」じゃなくて「何を書いたらいいのか?」どうしても決まらない。(結局は、いろいろ探してそれっぽいことを書いたのですが。。)
「正解は一つ」に逃げる怖さ
また、山口周さんの『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』には、オウム真理教に関する次のような記述がありました。
論文のネタが思いつかない、という状況よりはもっとハードですし、オウム真理教が行ったことに対しては全く賛成することはできません。
が、ここに至った背景については「グライダー人間」なら当然たどってしまう道のりかもしれません。与えられたものを必死になって学び、それとは違う世界にいきなり直面して当惑してしまう、その点は一緒かもしれません。
正解には全然至らないのだけど、必死になって正解を探していた自分を思い出しました。
「一つの正解を探すゲーム」
考えてみると、自分も人生の前半「一つの正解を探すゲーム」に相当ならされてしまっていた、という感覚はあります。
もちろん、そんなのはただのゲームだと気づいてゲームとしてだけやっていた人もいるし、そんなゲームやってられないと言ってゲームから降りた人もいると思います。
でも、みんな同じような服装で同じような回答をしがちな就職活動であったり、社会に出ても当分は学ぶことが重視されたり、あたかも「正解は一つ」なように、活動している人も多くいるように思います。私もその一人かもしれません。
日本が欧米のキャッチアップしたのちに、新しい何かを作る必要があるのにそれができず、失速している、迷走している、と言われる原因の一つは、この「一つの正解を探すゲーム」思考に多くの人が侵されているのもあるのだと思います。
正解のないところまできて、さて、どうしようか、と立ち止まってしまう。
そもそも正解が一つではない問題もいろいろある
ほとんど愚痴ではありますが、昔から「絶対に答えは一つじゃない」と思っていたものに、国語の問題がありました。
「このとき主人公は何を考えたか?」みたいな問題が、強烈に苦手でした。。。
4択だったりすることもありますが、そもそも4択の中に思う答えが無かったり、正解を見ても「いやー、そんなこと考えないだろ。もっと黒いこと考えてたんじゃない?」とか思うし。
最後は「主人公が何を考えたかじゃなくて、出題者が何を考えたか当てるゲーム」みたいに思ってやってましたが、まあ、当たらなかった。。。
答えがないかもしれないものに、無理やり正解を作るのもどうかと思います(個人の感想です)
「あなたの正解」「私の正解」別々であることを認める
正解が一つではない場合、選択していい幅はあるものの、「私が正解だと思っているもの」「他人が正解だと思っているもの」が往々にして違うものになることがあります。
実際のところは、仕事だと、やってみないとわからないことだらけで、ゆえに、仮説を立ててやってみて、成功することもあれば、うまくいかないこともある。
自分が正しいと思ったことではなくて、他人が正しいと思ったことを実行して、それがうまくいくこともある。とにかく、たくさん活動してみて、正解らしきことがうっすら見えてくる、みたいなことはよくあります。
でも、ふと気が付くと「正解が一つだと思っている自分」「答え合わせをしようとしている自分」がいるのではないか、と思いました。
「正解は一つ」という病にかかると、違う正解を主張されると認められないこともあるかもしれません。違う正解を主張されて、自信を失うこともあるかもしれません。
でも、正解は複数あるかもしれない。そもそも正解なんてないかもしれない(時と場合によって結末が変わるかもしれない)
必要なのは慣れ親しんだ「正解は一つ」という世界じゃなくなっても、それを受け取って、なお自分の頭で考えて、一番正解に近いと思われるものを実行すること。
という、比較的当たり前の結論を再度認識しました。
おわります。
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