見出し画像

喜びのフロンティア

人間ってなんなんだろう
生きているってなんなんだろう

そういった「問い」は、小さい頃から、母の運転する車の後部座席で横たわり、ガラス越しにずっと追いかけてくる月を眺めながら、思いふけることがよくあった。
でもそれを考え始めると、フワッと頭が真っ白になり魂が抜かれそうになるので、なるべく考えないようにしていた。

しかしながら、その「問い」は生きている限り、ないことにはできない。言い換えれば、「死とは何か」とイコールになっている。ゆえに今でも、ふと考えてしまうことがある。(そもそも「死」という概念を人が創造したからかもしれないが…)

そんなことばかり考えていては「バカらしくて仕事にならん!」ならぬ「バカらしくて生きてられん!」となるのが、今私が生きている時代。
日常茶飯事、そんなことを考えてられない。

せっかく今、生きている。
せめて命ある間は、生きる喜びを感じていたい。そう思うのは、生まれてきた人皆同じではないかと思う。

では、人の生きる喜びとは何か。


以前「人がわかりあいたい理由」という内容でnoteを書いた。それを見てくれた友人がそのヒントになるかもしれないと、この本(『動物と人間の世界認識』)を譲ってくれた。ここには人を含めた「動物」がもつ「イリュージョン」について書かれていた。

「イリュージョン」とは…

…人間以外の動物たちも、身のまわりの環境すべてを本能によって即物的にとらえているわけではない。むしろ本能というものがあるがゆえに、それによって環境の中のいくつかのものを抽出し、それに意味を与えて自らの世界認識を持ち、その世界(ユクスキュルによれば環世界)の中で生き、行動している。
その環世界はけっして「客観的」に存在する現実のものではなく、あくまでその動物主体によって「客観的」な全体から抽出、抽象された、主観的なものである。
(…中略…)
きわめて俗っぽくいえば、それはある意味での色眼鏡かもしれない。しかし、たとえば動物と人間における色眼鏡と呼んだとすると、かなり限定された印象を与えることになろう。
そのようなことをいろいろと考えた未、ぼくはそれをイリュージョン(ilusion)と呼ぶことにした。
イリュージョンということばには幻覚、幻影、幻想、錯覚などいろいろな意味あいがあるが、それらすべてを含みうる可能性を持ち、さらに世界を認知し構築する手だてともなるという意味も含めて、イリュージョンという片仮名語を使うことにしたい。

『動物と人間の世界認識』(日高敏隆)より抜粋


私もnoteの中でしばしば「世界観」という言葉を使う。その「世界観」というのは、まさにその個人が主体的にもつ世界のことで、著者の日高先生の仰るイリュージョンに近しい。(ちなみに著者は私の母校の初代学長)
私も以前からモヤモヤとしているが、「人は分かり合えない」理由は、このイリュージョンに尽きると思う。
私と相手は当然ながら同じ人間ではない。私のイリュージョンと相手のイリュージョンは別物。社会上・文明上、共通する言語や事象を「理解(共有)」できても、二つの個人のイリュージョンは相容れない。
例え一つの体を二つの頭で共有していたとしても、それぞれの頭は別のイリュージョンを見ており、体の不調やお腹のすき具合など生理的なことは分かり合えるかもしれないけど、それでも隣の頭の人とは分かり合えないだろう、とさえ思う。

この分かり合えない理由がイリュージョンであることには、全く異論なしである。しかし驚くべきは、この本では私の冒頭の問いに対しても、最後の最後に応えてくれていたことだ。

…客観的な環境というものは存在しないということからもわかるとおり、われわれの認知する世界のどれが真実であるかということを問うのは意味がない。
人間も人間以外の動物も、イリュージョンによってしか世界を認知し構築し得ない。
そして何らかの世界を認知し得ない限り、生きていくことはできない。人間以外の動物の持つイリュージョンは、知覚の枠によって限定されているようである。けれど人間は知覚の枠を超えて理論的にイリュージョンを構築できる。
学者、研究者を含めてわれわれは何をしているのだと問われたら、答えはひとつしかないような気がする。それは何かを探って考えて新しいイリュージョンを得ることを楽しんでいるのだということだ。そうして得られたイリュージョンは一時的なものでしかないけれど、それによって新しい世界が開けたように思う。それは新鮮な喜びなのである。人間はこういうことを楽しんでしまう不可思議な動物なのだ。それに経済的価値があろうとなかろうと、人間が心身ともに元気で生きていくためには、こういう喜びが不可欠なのである。
これもまたひとつのイリュージョンにすぎないのであろう。でもこれによって、あまり固苦しい美学や経済に囚われない世界を構築できるのかもしれない。

『動物と人間の世界認識』(日高敏隆)より抜粋

私たちは、世界観が開けることに喜びを感じる動物。
つまり、「人は分かり合えない」と分かりつつも、それでも「人と分かり合いたい」という思いに駆られるその理由は、
己の新しい世界観を開きたいから。
そこに喜びを感じるから。
その喜びこそが人間の生き甲斐だから。

なのである。
これには、なるほど!!と思った。

日本の動物行動学の第一人者である著者の晩年の結論めいたこの文章に、私の問いに対する色々な伏線が回収されていくような感覚だった。

この答えは、以前のnote記事「人がわかりあいたい理由」で一つの答えとしてあった、自分が何者かわからないが故に他者とつながりたい・分かり合いたいと思う「自己承認欲求」とは、また別のベクトル。

生きる喜びとは何か?という一つの答えとして、これが本当に科学的にそうなのか?とは思う。しかし、それはもはや科学ではどうしようもない領域なのかもしれないとも思う。生涯をかけ、人を含めた動物の行動を誰よりも観察して研究してきた著者が行き着いた一つの答え。言語とか概念の世界で説明できるものではないのかもしれない。著者の「不可思議な動物」という言葉にその強さを感じる。

私はそういう考えが好きだし、そういう感覚の世界を、「確かに感じた世界」を大事にしたいと思う。それもいうなれば、結局私個人のイリュージョンなのかもしれない。

そういうことを考えると、これまでの人類の文明発達は、この「己の世界が開けることが生きる喜び」という本能的プログラムによるものではないかとも思ったりする。人類史上ひときわ象徴的な、大きな海を渡り、大陸を支配した、あのフロンティアスピリッツの源。そして、そこから派生していると思われる今般の「ポジティブ良し」を強要する風潮。
仏教では基本的に「苦」が人のデフォルトといわれる。「開ける喜び」は、「人と分かり合いたい」は、その反動なのかもしれない。
ただ、あくまでその対象は大衆ではなく個人の、私の、人ひとりのヒューマンスケールでないと、もはや「生きる喜び」は崩壊してしまうだろう。コップの水の表面張力のように、生命体が誕生する温度や湿度帯などがあるように、ブリの煮つけのいい塩梅があるように、いい加減(̟加:プラス、減:マイナス)というものが、この宇宙の大前提としてきっとあるだろう。それは散々、親にも言われてきたではないか、「あんた、いい加減にしぃや!」と。

また一つ私の世界観が開けた気がした。これはまさに喜びであると同時に、友人とまたひとつ分かり合えたという喜びでもある。
こんな私のどうしようもないイリュージョンに付き合ってくれる友人に本当に感謝である。


無性にこの曲が聴きたくなったので、貼っておこう。


この記事が参加している募集

読書感想文

最近の学び

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?