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ここまでの話(あるいは、高梁川志塾とまちづくりについて) その1

ずいぶんご無沙汰してしまった。忙しかった。

もちろん、仕事が忙しいわけではなく、仕事と言い張って始めたまちづくりと、高梁川志塾の出席で。

今年の初めに、僕が勤める会社がある水島(岡山県南部の果て、高梁川の河口部に広がる巨大コンビナートを擁する地域)の、すごく気になっている人のところを訪れた。気になり具合は、もはや「恋」といってもいいくらいだが、僕の恋愛対象は女性なので妻に後ろめたいことではない。

F氏とする。F氏は、僕がこの会社に勤め始めてから、いたるところで名前を聞くようになった水島のレジェンドの一人で、比較的若い60歳代の男性。白髪で上品で、笑顔を絶やさず、みんなと一緒にワクワクしたいという思いを常に抱えている人だ。

そんな彼は、水島の行政や教育機関と広くつながり、まちを受け継いでほしい若者たちや、まちづくりにともに汗したい人たちを束ねたり、伴走してくれている。

もともと、企業理念から始まりCSR、CSV、ESDときて、今ではまちづくりに関心を抱いている僕は、彼がどうして、どうやったら今の彼になれたのかを知りたくて、いつもと違い二人だけで話をする機会をもらい、尋ねた。「あなた、いったい、何者なんですか?」と(笑)

失礼な話だ。人生の大先輩に「何者なんですか?」なんて聞くだろうか。でも聞いた。それが一番、僕が聞きたいことを率直に表していると思ったから、とにかくF氏にとてつもなく近づきたい、知りたいんだということを感じてほしかった。

F氏はちょっと照れたように笑って、いつものように優しく、詳しく、丁寧に話してくれた。

そこから、F氏と僕の関係は変わったように思う。水島の誰もが知る鉄道会社社員としてではなく、一個人としてともに水島の未来を語りあい、スクラムを組む間柄に近づいた。

ある日、そんなF氏が「読んでほしい原稿がある」と言って、僕に紙の束を差し出した。そこには、僕が勤める会社が運営する鉄道沿線を舞台にしたショートストーリー集があった。

この会社に来て驚きの声を漏らしたのは、もう何度目だろうか。それらすべてが、まちの人がこの鉄道に抱く愛着の大きさを感じさせられたときだ。

論文などを書いたこともあり、文章力には多少評価がある僕ができることは、丁寧に読んで、赤を入れてお返しすることしかなかったが、この若い作家がこれを練り続けてくれたら、いつか駅のホームに飾りたいと付け加えた。

そしてF氏に聞いてみた。「この小説、どうしたんですか?」

F氏曰く、「高梁川志塾」というのがあるらしい、この若い作家はその記念すべき第1期生で、この小説はそこでの成果だということだった。

正直、焦った。

高梁川志塾は、高梁川流域においてSDGsを探求する「志を抱く者の集い」だそうだ。そんなところに、まだ大学に入りたての若者が参加して成果を残している。自分もマゴマゴなんてしていられない。

その頃、僕は知らせを待っていた。水島にまちづくり協議会を作る動きがあると聞いていた。社内でというか、僕が所属する企画室内で「水島にまちづくり協議会を作っていい?ねえ、作っていい?」と駄々っ子のように騒ぎ続けたら、たまりかねたように上司が出してきた情報だ。

僕は、会社で浮いている。針路がオールグリーンにならないと動かない、いや、そのうえで強烈に背中をたたかれないと一歩を踏み出さない社風の中にあって、「目的だけ見失わなければ、進む方向はわかるからあとは走りながら考える」「決定されつつ決定するのが人生だ、思い通りにいくことなんてない」と公言している僕は、「エキセントリック」に見えるらしい。事実、経営者らは僕を評してそのように言う。

だから、僕を暴走させないよう、コントロールしたいのだ。もちろん僕は、抑えつけられた頭をどうにかして、狭められた包囲網をかいくぐり、ご心配の「暴走」を企んでいる。そんな中で得た「水島まちづくり協議会設立」の情報だった。

しかし、いつまでたっても案内が来ない。上司に来てもまだだという。そんな折、F氏から連絡があった。「先日、まちづくり協議会の設立準備総会の案内があったが、そちらにも届いたか」と。

もともと情報は取りに行く主義だが、そうやって故意に隠されると得る手立てがない。上司に詰め寄り、「まちの人からいただいた情報では、ウチにも届いているはずですが?」と問いただすと、昨日届いたと引き出しから案内が出てきた。彼に悪気がないのは確認済みだが、こういうときはどうしても疑いたくなる。

そこからは怒涛のラッシュで自分も設立準備会に出席できるよう求め続け、当日はふんぞり返った上司の隣で、我ながら気持ち悪いくらい目をキラキラさせながら席についていた。

準備総会は、うまくいかなかった。発起人の口から語られたのは、案内に書いてある通りの「地域おこし協力隊の受け皿としての協議会設立」だった。当然、ふんぞり返っている人たちの中からは「何の目的で集められているのかわからない、協議会をどうしていきたいのかわからない」という、批判に近い質問が飛び交った。

どうにかこうにか、設立準備に入ること、ここに列席している人たちは委員となることについてだけ合意が成立し、会議は〆に入った。

この空気は、どうやらいつもの空気らしい。上司は隣で「ほら見たことか」といった表情だ。いかん、せっかくのチャンスが潰れてしまう。

「はい」僕は手を挙げていた。そして言った。

「お手伝いできることは何でもします。ぜひ、ワクワクすることができる協議会にしましょう!」

あっけにとられた人3割、表情のわからない人6割、「救われた」という笑顔を浮かべた人1割といったところだ。隣の上司はえらい剣幕で「今言ったことを取り消せ!」と凄んでいる。「はあ?何でですかあ?」残念ながら、一度出た言葉は引っ込められない。だから言ったのだ。残念ですが、それが僕です。

あの場でみんなが聞いたのだから、もう引っ込められないですよと、次の日から早速動き始めた。発起人のほとんどは、僕が「水島のレジェンド」と勝手に呼んでいるご老公たちだが、一人だけ僕とあまり年齢の変わらない、いやたぶん若い社長さんが含まれている。まずこの人に「話を聞かせてください」と申し込んだ。懇談の場はすぐに実現し、その若い社長さんからは、僕の会場での叫びを聞いて「これで協議会は成功だ!と思った」と言う、かなり気の早い、でもうれしい言葉をもらった。仮にM氏としよう。

そこから発起人らに紹介してもらい、準備会に参加しませんかという運びになった。あまり話す機会のなかったレジェンドたちとも顔を合わせたが、不思議なことに水島の人たちというのは、とても話しやすい。どこか懐かしい感じがする人たちばかりだ。まだ胎内に宿ってもいなかった設立目的を含む規約、組織、事業計画、予算を作って見せていく中で、レジェンドたちは僕のことを気に入ってくれ、協議会では事務局長にとまで言ってくれるようになった。

しかし敵も黙ってはいない。会社の代表として事務局を担うためには、もちろん会社の了解を得なければならないが、上司は事務局長というポストに断固反対した。発起人らが求めているし、僕も意欲があると言ってもダメで、最後は経営者による会議の席で決まったと言って、僕を「事務局員」としてなら派遣するという回答を出してきた。会社の決定ということだったが、最初から事務局長というポストを出していないのは明白だった。

まあ、いい。やることは変わらない。

空白となった事務局長のポストは、「来年もう一度がんばるから」と拝み倒して、初年度だけの約束でM氏に就いてもらうことにした。

敵の追撃の手はやまず、今度は僕を委員から外した。確かに会社の代表たる委員は1名の方がいい。他とのバランスにも配慮しなければならない。

まあ、いい。来年までに部会を立ち上げ、その仲間たちと団体を作ろう。来年からはその肩書で協議会に参加させてもらえばいい。上司の神通力もだいぶん効かなくなってきている。この手のお年寄りに変われというのは酷だ。あと1年足らずがまんしよう。

ゴールから目はそらしていない。迂回も引き返すのも上等だ。

そうやって自分を励ましながら、まちづくりや、協議会の設立目的にしようとSDGsの情報をネットで漁っていた時、ある記事がふと目についた。

「高梁川志塾第2期生募集…?」

これがF氏の言っていた高梁川志塾、あの若き作家が参加していた高梁川志塾。それが第2期生を募集している。締め切りまであとわずかだ。

F氏の「ご縁なんでしょうね…」という口癖が頭をよぎった。

(つづく💛)




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