最近読んだ本(2022.11〜2023.2)
読書記録を書くのをさぼっているうちに、なんだか外があったかくなってきた。もう春ですね。
目録
11月
密やかな結晶(小川洋子)
Arc ベスト・オブ・ケン・リュウ(ケン・リュウ)
夜の舞・解毒草(カリージョ・カン、マルティネス・フチン)
ディディの傘(ファン・ジョンウン)
気流の鳴る音(真木悠介)
12月
堕落論(坂口安吾)
本のための生涯(イワン・スイチン)
侍女の物語(マーガレット・アトウッド)
東京の生活史(岸政彦 編)
ちくま日本文学全集 岡本かの子
ほとんど記憶のない女(リディア・デイヴィス)
時間の比較社会学(真木悠介)
1月
人間失格(太宰治)
スタジオジブリの想像力(三浦雅士)
プールサイド(台湾文学ブックカフェ)
タタール人の砂漠(ブッツァーティ)
いきている山(ナン・シェパード)
遠い声 遠い部屋(トルーマン・カポーティ)
すべて内なるものは(エドウィージ・ダンティカ)
火星の生活(堀部篤史)
冬の夜ひとりの旅人が(イタロ・カルヴィーノ)
日本人の冒険と「創造的な登山」(本田勝一)
アルジェリア、シャラ通りの小さな書店(カウテル・アディミ)
風の十二方位(アーシュラ・ル=グウィン)
ハイパーハードボイルドグルメリポート(上出遼平)
2月
ピアノへの旅(坂本龍一)
オリーヴ・キタリッジの生活(エリザベス・ストラウト)
珈琲の建設(オオヤミノル)
逃亡派(オリガ・トカルチュク)
わたしのいるところ(ジュンパ・ラヒリ)
果てしのない本の話(岡本仁)
苦海浄土(石牟礼道子)
ちょっとピンぼけ(ロバート・キャパ)
喫茶店のディスクール(オオヤミノル)
長距離走者の孤独(アラン・シリトー)
装丁物語(和田誠)
読んだ本をぜんぶふりかえるのは無理な冊数になってしまったので、ざざっといきます。
未来が数種類ある世界
真木悠介さん(別名 見田宗介さん)に関しては、以前から「時間の比較社会学」を牛歩のようなスピードで読み進めていた。昨年本人が亡くなられて、そこから同時進行で「気流の鳴る音」を読みはじめた。
順番的には、「気流の鳴る音」などのいくつかの著作を経て「時間の比較社会学」が完成したという経緯だそう。
とくに「時間の比較社会学」は久しぶりのアカデミック(というか哲学)寄りな内容だったので、一文読みくだすのに3往復くらいかかっていたように思う。でも読んでよかった。「反穀物の人類史」くらい面白かった。
なかでも、時間のとらえ方が文化や民族によって異なるという話。アフリカのある人々の伝統的な生活の中では、一定期間を超えた先の「未来」という概念は存在せず、もっと言えば「過去と現在」と「未来」はまったく別のもの(同じ「時間」という概念ではくくられない)になる。真木さんが「スケジュール化された生」と呼ぶ、画一的な「時間」が流れる環境に慣れてる身としては、想像するのも一苦労だ。
うーん、もう一回読まないといけない気がしてきた。
しかし噛めば噛むほど味が出るというか、深みにはまっていくような思考に挑戦するための本だと思った。たまにはこういうアクロバティックな読書もしていく。
「東京の生活史」を読み終えて
東京で生まれた・東京に住んでた・東京に住んでるなど、なんらかの東京とのつながりがある、年齢も仕事もばらばらな150人の語りをそのまま綴じた一冊。編者は岸政彦さん。厚さが広辞苑くらいあって1200ページを超える巨大な本なのだけど、数ヶ月かかってなんとか2022年中に読み終えた。
最後に岸さんのあとがきを読んでたら「通しで読む人はおらんと思うけど」みたいなことが書いてあり、「おーい!笑」ってなったけど。
面白かった。一人で立ち飲みに行って、隣の人とマスターの会話を聞いてるかのような、脈絡も帰結もない語りから、なんでこんなに目が離せなくなるんだろうと思う。
時間は有限なのに無限に増える情報に囲まれてるから、物語に意味を求めすぎてなにか学びがないと読んだ気にならない、みたいな状態になってたのかもしれない。(そしてまたひとつ、気づきをひねり出してしまった…)
人生がダイナミックに変わった人の話もたくさんあるけど、むしろ翌日には忘れてるようなささいな話の果てしない累積、という印象のほうが強い。でもそこがいい。
文字を追っかけてその人の声や表情を想像しているうちに、なんとなく自分も聞き手にまわっているような気がしてくる。「読む立ち飲み屋」だと思う。
本当のことを臆せず言う人がいい
2月に読んだばかりのオオヤミノルさんの2冊と、イラストレーター・和田誠さんの本。
オオヤさんはコーヒー、和田さんは装丁と、それぞれプロフェッショナルとして住む世界はちがうものの、それに向かう姿勢と目線に似たものを感じた。
オオヤさんが「お客さんとの契約」と呼ぶもの、これはコーヒーに携わる人だけじゃなく、商いすなわちお客さんがいる仕事に従事する人には必要な思想だと思った。ここで書かれている契約違反を、自分が仕事のなかで無意識のうちにしていた可能性は否定できない。
和田さんのほうは「本のカバー裏についてるバーコード」がいかに装丁を壊すか、ということを切々と述べていて、はっとなった。今はバーコードがついてるのが当たり前だけど、「流通を加速させる」という大義名分のもと味もそっけもない記号が急に自分のキャンバスのど真ん中に急に出現したら、それは嫌だろうなあ…と思うし、嫌とかの情緒的な問題以前に、それまでの「装丁」芸術を否定し、無理やり変質させるものだっただろう。
で、こういう「なんかみんなが(無意識にか意図的にか)忘れがちな、だいじな根本の思想」を忘れようとする風潮に対して、「いやそうじゃないでしょ」とはっきり言えるのは、その世界に身を置きながらずっとあるべき姿を言語化してきた、という事実があるからなのかなと思った。仕事に真摯であるということ。
ついでに思ったのは「ああ、この二人は実は同じことを言ってたんだな」と気づくのはとても楽しいが、それが「ああこの二人同じこと言ってんなー」に変わったときは、きっと何かを見落としている、ということ。
ちゃんと理解して飲み込んで消化する…と文字にしてしまえば当たり前なんだけど、難しいなあと思った。
「あの本が出てくる本」はたのしい
小説を読むことが多い。とくに、本や本屋に関する話が最近増えている。
韓国のファン・ジョンウンの「ディディの傘」では、実際の小説がたくさん出てきて楽しかった。
私もサン=テグジュペリの「人間の土地」を読んだときに、同じような映像を思い浮かべたことを思い出した。
この話は、決められた結末に向かって起承転結の型のもとに編集された思想という形は取っていない。垂れ流しの思惟がとても「リアル」で、みずみずしい文章だと思った。
何も起こらない物語
ブッツァーティ「タタール人の砂漠」を読んだ。きっかけは下のツイート。
まあまちがいなく面白いんだろうと思って読んだけど本当に面白かった。
「何も起こらない」と言われても、逆に何かが起こることを期待して読んでしまうのが読者の性なのか。読んでて、主人公と一緒に「なにか起こる…起こるぞ…」「今度こそ…」「さすがにそろそろなんか起こるやろ…」とずっとはらはらしてたのに、本当になにも起こらなかった。
その「来るべき未来の幻覚」を中心にまわってる世界で、翻弄される人間の様子に「うわあわかる…」ってなることが多くて、取り立てて派手な出来事もないのに、これのあと他の本を読んでても物足りなくなってしまった。すごい中毒性。
この感じはアンナ・カヴァンの「氷」を読んだときと似ている。あちらは、ストーリーはそんなに残らないけど「寒い」がひたすら残る。こちらは「何かが起こることへの期待」だけが残ってる感じ。
2023年もゆるゆるアウトプットするぞー!
メンバーシップでは不定期で本や旅行やらについてぶつぶつ言ってます。
よかったらどうぞ。
この記事が参加している募集
最後まで読んでいただき、うれしいです。 サポートをいただいたら、本か、ちょっといい飲みもの代に充てたいとおもいます。