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2022年8月の読書記録

9月の…ではなく8月のですが、読んだ本をふりかえります。
今回はたまたま、モノトーン背表紙シリーズです。

目録(5冊)

サンドウィッチは銀座で(平松洋子)
アノマリー(エルヴェ・ル・テリエ)
カメレオンのための音楽(トルーマン・カポーティ)
ユリイカ(特集:スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ)
赤い魚の夫婦(グアダルーペ・ネッテル)


次の季節が楽しみになる –––『サンドウィッチは銀座で』

前から気になっていた平松洋子さんのグルメエッセイ。「何何をどこどこで」のタイトルで他にも数冊刊行されてるが、この「銀座」回が第一号、のはず。

食レポという文化にはあまり馴染みがなく、とりあえずいい店を知りたいという欲望から手に取った一冊。結果として、お店情報は意識の後方に追いやられ、一つ一つの料理に貪欲に向き合う美食家としての矜持と、美味しさをあらわす表現の豊かさにただ頭が下がる一冊だった。

どの章でも一回は「うわぁあ食べたいいい」となる部分がある。見た目や香りや材料を列挙するだけでは終わらせず、美味しそうな食べ物を前にして動揺したり感動したりそわそわしたりする、私たち観客の心理状態まで描写してくる。お腹がすいてくること間違いなしの食欲刺激本。

そろそろ涼しくなってきたから、鍋のお店のシーンでも抜粋してみる。

おねえさんが馴れた手つきで小ぶりの鍋を運んできてくれ、ガスコンロに火が点る。ふたりにひと鍋ずつ、向かいのふたりがひとつの鍋をつつくという次第。さあ鍋があたたまってきた。
まず桜肉と味噌。つづけてねぎのざく、白滝、麩。
味噌をぜんたいにほぐし、割り下を注いで待っていると、しだいに煮えがついてくる。鍋のなかがくつくつ弾んだら、いよいよ桜肉を広げます。桜肉はふわっとピンクいろになった瞬間、すかさず引き上げて味わうのがいちばんだ。
それ、今だ。
ふたつの鍋に四人いっせいに箸をのばし、さっと溶き玉子に浸して頬張る。噛みしめると、濃縮した桜肉のおいしさが口いっぱいにあふれる。うれしくなって、もうひと切れ、またひと切れ。そうこうするうち、ねぎが煮えた。白滝もいいぐあい。口をきく者はだれもおらず、みな真剣なおももちで鍋のなかに集中する。

「座敷でゆるり」より

鍋が食べたいなあ。

異常なのは状況だけ –––『異常アノマリー

少し前から気になっていたSF小説。表紙の絵がシュールレアリスム感あって印象的。

あらすじとしては、乱気流に巻き込まれた飛行機が、無事に抜け出てニューヨークに着陸した3ヶ月後、まったく同じ機体で同じ乗客を乗せたままニューヨークに着陸するというもの。つまり、3ヶ月後のそのタイミングから乗客と乗務員がダブって存在することになった世界の話である。

発端となる事象じたいはSFチックだが、この小説の大部分を占めるのはSF的記述ではなく、多数の人々(最初に乱気流から抜け出したほうも、あとから世界に復帰したほうも)がそれぞれの人生のターンポイントをどう行動するかを描いた群像劇というほうが近い。

未知の出来事、しかもダブってしまった張本人たちには「本物」も「偽物」もないので、双方が双方に対していきなり自分の分身に出遭ってしまうという事態を前に、その後の人生をどう進むか(あるいは進まないか)それぞれの決断を順番に辿っていくことになる。

個人的には、実は同じ事象が発生していた別のある国での状況ももっと詳しく書いてほしかったけど、それをやると「三体」なみのボリュームになってしまうだろうから、あれくらいでよかったのかもなぁと思った。

宇宙人も、超常現象も(飛行機がダブったこと以外)でてこないので、SFをふだんあまり読まない人にも没入しやすいかもしれない。

旅に持っていく本の条件 –––『カメレオンのための音楽』

カポーティのこの短編集自体はけっこう前から知っていた。吉本ばなな「アムリタ」で、主人公の恋人が旅先に常に持っていく本として紹介されていたので。

いつも、旅行に出るときいろいろ迷うんだけれど、結局いつもカポーティの『カメレオンのための音楽』を持っていくから、好きなんだろうな、と思うんだ。文庫じゃないから重いのに、いつも持ってって枕元において、何回も読んだのに読む。

アムリタ(下)

私にとって“何回も読んだのに読む”本はむしろ「アムリタ」なのだけど、こうしてページ半分読み返すだけでも、小説全体の空気がぶわーっと押し寄せるような気がしてくる。彼にとってのカポーティも似たようなもんなのかもしれない。

アムリタのこのシーンは遠い異国の島での一場面だが、「カメレオンのための音楽」にもずっと、この異国の雰囲気が漂っているように思う。異国で、前から歩いてくる人やちょっと話した人の仕草や選ぶ言葉の断片に「ふだんと違う、見知らぬ人間」を見るときの感覚というか。それぞれのバックグラウンドや思想をぜんぜん知らない者どうしで、さらに片方がふだん使わない言葉を使っているとなればそのギャップ?というかその落差は必然的に大きくなるけど、話の中でTC(カポーティ自身)が登場人物と話しているときも、なぜかその違和感が漂っているような気がしてくる。同じ英語で話している設定のはずなのに。夢の中で知人が出てきて、でもいつもは取らない言動を始めたのを見ている感覚にも似ているかもしれない。

旅にこの本を持っていくというのは、そういう異空間を入れ子状に携行していくことなのかもなと思った。

ちょっとした不穏さをまとった浮遊感のある話が多かった。でもわりと好きなので他の作品も読んでみたい。

多面的な事実をありのままに記録する –––『ユリイカ 特集:スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ』

ユリイカを読んだのは初めて。去年「戦争は女の顔をしていない」に出会ってからスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチという人の言葉にはできるだけ触れておかなければ、という気持ちがある。ウクライナがこういう状況にある今はとくに。

最後まで通しで読んで、まず「ユリイカってすごいな」と思った。エッセイ・論考・イラストなどさまざまなスタイルで、縦横無尽にアレクシエーヴィチが語られる。それらの中には、彼女の作品だけを読んでいたら決して得られなかったであろう思想もあった。

まず、アレクシエーヴィチが「ドキュメンタリー」というものを一体どのように捉えているかを論じたNHKディレクター・鎌倉英也さんの文章。

日本におけるドキュメンタリーはニュース報道と混同され、「客観的事実」を伝えるものと思われていることが多いという(たしかに)。一方で「証言文学」を標榜するアレクシエーヴィチにとって、ドキュメンタリーはもっと多面的な、不確実性の高いものであるようだ。

アレクシエーヴィチにとっての「事実」とは、人間が何を感じ、どう行動したかであり、それをまた彼女自身がどう受け止め、いかに表現するかという点に尽きると言う。彼女にとっては「客観的事実」などというものはなく、「事実」を見つめる、とは「人間とはいかなる存在なのか」という答えのない問いを永遠に繰り返してゆく孤独で主観的な作業にほかならない。

また哲学研究者・藤岡俊博さんは「戦争は女の顔をしていない」が日本でコミカライズされるにあたり、どんなことが起こったかを分析している。戦争が漫画の文化と交差する、という視点がとても新鮮で興味深かった。

この他にも逢坂冬馬さんや深緑野分さんなど錚々たるメンバーによる寄稿が続く。一冊分の読書にしてはものすごいエネルギーを使うけれど、アレクシエーヴィチの聞き書きの対象は数百人、数千人にも及ぶことを考えると、これの比じゃないなと思ったりした。とうてい比較できるものでもないが。

理解を超えた他者と在ること –––『赤い魚の夫婦』

先日浅草でBOOK MARKETというイベントが開催されたので行ってきた。たくさんの出版社がブースを出していて、早川書房やライツ社のブースにも寄れたりして楽しかった。

グアダルーペ・ネッテルというメキシコの作家の短編集「赤い魚の夫婦」は、そのときに購入した本。

メキシコあたりの中南米の作家作品には独特の雰囲気があるなぁと思う。自分の中ではその最たるものがガルシア=マルケス「百年の孤独」で、(中南米とひとくくりにするのは正しくないとは思うが)気候や歴史の影響ってやっぱり大きいのかなと思ったりもする。逆に、日本と韓国の文学も地球の裏の人からは似たようなものに見えるんだろうか。

それはさておき、彼らの文学を読むたびに感じるのは「人間以外の、科学では証明することのできない他者の存在や業」みたいなもので、それは先祖の霊とか呪術みたいな形で説明されることが多いように思う。ものすごく個人的な主観だけど。

本来は彼らだけでなく他の大陸の人間も持っていたものだとは思う。それをあるがままに受け入れたり現代の言葉で過剰に説明しないようにしたりする…というのが結果として作品の独特な雰囲気として伝わってくるのだろうか。

「赤い魚の夫婦」はタイトルにある魚を含め、身近なさまざまな動物との関わりがテーマ。動物が説明のつかない行動をとったり原因がわからないまま死んでしまったりすることに対して、人間側はいろいろ考えたりするんだけど、結局のところ「わからない他者」には言葉を操れるはずの人間も含まれるんだなというのが、特に印象的だった最後の「北京の蛇」の感想だった。

文章が優しくて、寝る前とか時間に追われない時間に読むのがちょうどいい本。別の作品の翻訳も進んでいるとのことだったので、次作を楽しみに待ちたい。


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