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7-9月の読書記録:歴史/神話/戦う操縦士

旅行の代わりに本とNetflixに明け暮れた夏だった。去年の同時期は3ヶ月で1冊しか本を読まなかったのに、気付いたら今年は20冊ほど読んでいた。

読書量が増えたのは、コロナの影響が直接的にはあるんだけど、韓国ドラマやクラシック音楽などのあまりなじみのなかったジャンルの扉が開いたことで好奇心のたがが外れたんだな、と思う。
インプットばかりではよくないなーと思いつつ、本来アウトプットすべき言葉が自分の中で沈殿したり腐っていったりするような感覚はなかった。興味の向く先が外になかったからか、もしくは以前より深めのインプットに脳の筋肉が耐えられるようになったのかもしれない。

今回から読書記録の形を少し変えて、テーマをもとにふりかえる形にしてみた。

目録

・貧乏人の経済学(A.V.バナジー、E.デュフロ)
・ある作家の日記(ヴァージニア・ウルフ)
・戦う操縦士(サン=テグジュペリ)
・イカの哲学(中沢新一、波多野一郎)
・全体主義の起原  1・2(ハンナ・アーレント)
・新世界より(貴志祐介)
・読書について(ショーペンハウアー)
・香港の歴史(ジョン・M・キャロル)
・グローバリゼーションと人間の安全保障(アマルティア・セン)
・パイドン(プラトン)

・言霊とは何か(佐佐木隆)
・ゼロの焦点(松本清張)
・チョコレートの世界史(武田尚子)
・カステラ(パク・ミンギュ)
・神と資本と女性(網野善彦、宮田登)
・100のモノが語る 世界の歴史 1(ニール・マクレガー)
・女たちの韓流(山下英愛)
・千の顔を持つ英雄 上(ジョーゼフ・キャンベル)

ディティールこそが本質では、という話

網野善彦さんという歴史学者の本がとても面白くて好きだ。歴史とは文献に残るような大きなできごとの連続体ではなくて、あらゆる人たちの生活のディティールの集積だということがすごくわかるからだ。

思えば6月以降韓国ドラマにどハマりしたのも、主軸のストーリーのおもしろさとか美しい映像とか俳優の顔とかの要因もあるだろうが、ディティールの作り込みがすごかったからだと思う。「愛の不時着」は見れば見るほど細部へのこだわりがすごくて、1周めより2周め、2周めより3周めというふうに毎回新しい発見があった(結果10周した)。ピントの合わない無数の人と物がつくるもうひとつの世界。レンズの向こうでまるで一連のできごとが本当にどこかで起こっているような感覚、世界の手触りが感じられるから、あそこまで没入できたんだと思う。

角度はちがうけど、人そのものについても同じではと思う。国籍、性格、経歴などはある人を1分で説明するときは大事な要素になるかもしれないが、ほんとうにその人を理解するのはなんでもない一瞬のできごと、ささいな場面で何を話し何をしたかというディティールの中にしかないと思う。外に出て生身の人と話していると膨大な情報が降ってくるから、感覚が麻痺して逆にそうした細部を注意深く見たことがなかった。人と会うこと自体が減ってる状況だからこそ、それがますます強く感じられるようになったのだと思う。

話を戻すと、今回読んだ網野さんの本は『神と資本と女性』。宮田登さんという民俗学者との対談が主で、題名どおり神と資本(お金)と女性についての考察が中世日本史をベースに展開される。『貧乏人の経済学』を読んだときも思ったけど、学問の世界は明確に境界線が引かれているわけでは決してなくて、歴史学、民俗学、文化人類学、さらには考古学や経済学が重なる交差点のようなものが存在しているという話、おもしろいし納得できる。網野さんの文章を読むと中世日本に生きてた人たちの生活が高解像度で浮かび上がってくる。世界史も日本史も大差ない、というか、鳥の目で見るか虫の目で見るかの違いなんだなと思う。

視点変われば歴史も変わる

歴史の授業は決して嫌いではなかったけど、最近まで、出来事を単なる点の連なりとしてしか認識していなかった。高校の世界史で聞いたアショカ王やアクバル王といった名前が『グローバリゼーションと人間の安全保障』とか『100のモノが語る世界の歴史』に出てきて、歴史的な人物がその時代に生まれた意義や今の人に与えている影響などを初めて意識した。高校のときにこういう本、読んでおけばよかった。

歴史の捉え方として、モノを基軸に世界を俯瞰するのも面白かった。『チョコレートの世界史』とかけっこう安易なんだけど意外にハマって3時間くらいで読んでしまった(新書だったからというのもある)。チョコレートの原料のカカオは中南米が原産地で、近代の植民地貿易の発展と共にアジアやアフリカでも育てられるようになったそうだけど、今のチョコレートが生まれるまでが面白い。もともとカカオが薬として広がったという背景や、綿密な計算と器械がないとチョコレートを精製できないという制約から、ヨーロッパで近代産業が興るまで生まれ得なかったという話とか(ネスレもリンツも、今はチョコレートメーカーの大手だけど、元はどちらも薬剤師の家系だったらしい)。

前述の『100のモノが語る〜』はコンセプトがとてもよくて、2巻以降も早く読みたい。もとはBBCと大英博物館が共同で企画したラジオ番組で、人類200万年の歴史をあらゆる時代と場所の遺物でたどるというものなんだけど、リスナーは紹介者の声だけでその遺物を想像せざるをえないわけで、あえて視覚的な制限を受け手に強いる発想がすごいなと思った。

さすがに大英博物館が監修しているだけあって、展示品にまつわるエピソードも印象的。古代の粘土版は湿気に弱いから、時々焼き直しをするための特別な窯が博物館にあるとか、楔形文字の解読の経緯(近所で働いてた印刷工房の労働者が仕事の合間に博物館に出入りするうちに興味をもって解読に至った)とか。

1巻のテーマの中心は古代文明なんだけど、中でも面白かったのは大洪水の伝説について。キリスト教圏では旧約聖書のノアの洪水がまず想起されるけど、実は聖書より数世紀前に書かれた楔形文字の文書に、すでに大洪水と種の保存にまつわる伝説が描かれている。発見当時のキリスト教世界では大きな衝撃が走り、粘土板の真贋や、聖書が二次的な創作物だったのかという疑惑が生じたりもしたのではと思うけど、世界最古の叙事詩「ギルガメッシュ」と並べて次のような見方が示されているのは興味深い。

双方の物語の背景には、明らかに核となる出来事、つまり大洪水があり、それはあの一帯すべての民族に語り継がれた記憶の一部となっていた。洪水の物語を伝える古い文章の役目は基本的に、自然の大いなる勢力は人間をあまり好まない神々によって支配されており、神々にとっては「力が正義」なのだと語ることだった。そこへ聖書が登場して、同じ話を再び語ることになるわけだが、その方法は一風変わっていた。神が洪水をもたらしたのは、世界が暴力に満ちているからだと。その結果、この物語は道徳となったのであり、それこそ聖書が目的としていたことの一部だったのだ。

ここを読んで、漫画版「風の谷のナウシカ」の蒼き衣の者の伝説を思い出した。もし本当に、ある共通の型の神話というものを人類がもっていたら、とてもおもしろいし、なんだかロマンがあるなと思う。

神話の原型

それから神話の原型に興味がわいて、『千の顔を持つ英雄』を読み始めた。あらゆる神話は「分離・イニシエーション(通過儀礼)・帰還」という定型を持っているという主旨。まだ上巻しか読んでないけど、今まで何の気無しにみていた様々な物語(映画、小説、ドラマなど)の場面や登場人物が、実は、無数の神話を通じて形成された特定の意味を帯びているということに気づく。

わたしは漫画版ナウシカに多大な影響を受けているので、いちいちさまざまなシーンを思い出しながら読んでいる。道化や庭の番人といった存在にもきちんと原型や存在意義があるんだなぁとか。

なお、道化については先日こちらの記事を読んだことがきっかけで山口昌男『道化の民俗学』を読んでいる。これもなかなかおもしろい。

本を勧めるということ

前述のように韓国ドラマにめちゃくちゃハマった夏だったが、同時に小説などの物語系のコンテンツにかつてなく興味がわいた。あまり人と読書の話をすることがなくて、直接小説とかをおすすめされるということもなかったんだけど、同僚の庭野さんと榎本さんに勧められたことがきっかけで貴志祐介『新世界より』を読んだりした(上・中・下巻をそれぞれ一晩で読み切るくらいおもしろかった)。

人に本を勧めるというのもあまりやったことがなくて、花田菜々子さんとかまじですごいなと思ってたんだけど、けっこういいなと思った。特に小説とか新書は読み手のハードルも低いし、解釈も人それぞれだから自由な感じがする。(読み応えがあって学びも多くても、ハンナ・アーレントを人に勧めるのは勇気がいる)

図書館という場所について

2週に一度は図書館に行っている。今回読んだ本の半分くらいは図書館で借りた。本を返しにいって、ただ本棚の間をぷらぷら歩いているだけであれもこれも読みたい、となって、結果返した冊数より多い本を借りてしまう、というくりかえしだった。そうして返却期限に追われ続けてたから、編集者に催促される作家の気持ちが少しわかった気がする。

それはさておき、本屋にはない特別な感じを図書館に抱くのはなんでだろうと思う。自分の新しい興味の扉がひらくのはだいたい図書館だという気がするし、もし日本が沈没するとなってもどこかの図書館だけはかろうじて残ってほしいと思う。『新世界より』でも図書館は重要なファクターになっていて興味深かった。おおげさに言えば図書館は、文化(や文明)が語り継がれる場所ということなのかもしれない。

あと、話題になった本やAmazonで欠品になってる本も、探してみたら近所の図書館に置いてあったりする。まじでありがたい。でもたまに、すごくいい本なのに前回の貸出日が1年前とかになってる本もあって、さみしくなったりもする。

図書館に関してもうひとつ、先日知った稲城市立図書館のアカウントがとても素敵な取り組みをしていたので紹介。館内で発生するさまざまな「音」をASMR(Autonomous Sensory Meridian Response)としてnote上で公開してるんだけど、静寂の印象がつよい図書館でも多様な音に囲まれているんだなあと気づかされる。わたしは「蔵書点検でCDを一点一点スキャンしている音」がかなり好きです。ちなみに自宅近くの図書館では先日まで鈴虫が飼われていて、ただただ虫の音を聴きながら本を選べる空間になっていた。あれもよかった。

今季のベスト:サン=テグジュペリ

人に本を勧めることに関連して、自分だったら何を勧めるかという話。わたしはサン=テグジュペリの小説が好きで、特に『人間の土地』はバイブルというか、自分の読書の原点だと思っている。文章はとても簡潔なのに、哲学者の頭の中をのぞいているような奥行きが感じられる。(さらに新潮文庫版だと、表紙絵は宮崎駿の手による飛行機の絵なので最高)

今季読んだ『戦う操縦士』もすごくよかった。サン=テグジュペリは飛行機のパイロットだったんだけど、大戦中の(戦闘飛行を含む)操縦行為を通じて、人間の根源的な存在意義などを考え続けた人だったんだと思う。特に心に残ったのは以下。

私は、人間が友愛で結ばれ、自由かつ幸福であることを望んでいた。当然のことだ。誰がそれに異論をとなえるだろう?しかし私は、人間が「いかに」あるべきかを説くだけで、「何者で」あるべきかを説くことはできずにいた。
自らの《存在》を築きあげるのは言葉ではなく、ただ行動だけなのだ。《存在》というのは言葉の支配下にあるのではなく、行動の支配下にある。それなのに《人間主義(ヒューマニズム)》は行動をおろそかにしてきた。だからこそ試みは挫折してしまったのだ。
個々の人間を通じて《人間》の権利を主張する代わりに、いつの間にかわれわれは《集団》の権利について語るようになっていた。《人間》を顧みることのない《集団》のモラルが、知らぬ間に忍びこんでいるのを目の当たりにした。

若くして巡航中の戦闘で亡くなったことが本当に惜しい。ちなみに彼が乗っていた飛行機が、1998年にマルセイユ沖で見つかったということを最近知った。

もう一冊、今季の本でおすすめするとしたらショーペンハウアーの『読書について』をえらぶ。

哲学者だから硬めの文章かな〜と思っていたのに、二流の書き手や読み手をやたら批判(というか罵倒)してて痛快だった。わたしは読んだ本の内容をすぐ忘れるので、こまかい読書記録をNotionでつけてるんだが、そういうのも容赦なく叩かれているようでちょっと耳が痛かった。印象に残ったのは以下。

私たち自身の内部からあふれ出る考えを、いわば咲き誇る春の花とすれば、本から読みとった他人の考えは、化石に痕をとどめる太古の植物のようなものだ。
真理はむきだしのままが、もっとも美しく、表現が簡潔であればあるほど、深い感動を与える。
紙に書き記された思想は、砂地に残された歩行者の足跡以上のものではない。なるほど歩行者がたどった道は見える。だが、歩行者が道すがら何を見たかを知るには、読者が自分の目を用いなければならない。

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前職の最寄りが京王線の初台で、お昼にたまに行ってたのがこちら。フヅクエさん。

「本の読める店」だから、よく考えたら本屋ではないけど。コーヒーもカレーもおいしいし、なにより静かだし、本を読む人には最適な環境なんです。下北沢店も良き。最近Twitterでやってる「フヅクエ時間」も超素敵な企画。

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