2021年4月の読書記録
これまで3ヶ月に1回書いてたけど、4月だけで思ったより読めたのでもう更新してしまうことにした。来月はどうだろう。ほぼ予定ゼロのまま連休に入ってしまったので、開いてる数少ない本屋さんをめぐる日が続きそうです。
目録
日の名残り(カズオ・イシグロ)
翻訳夜話(村上春樹、柴田元幸)
亡き王女のためのパヴァーヌ(パク・ミンギュ)
お砂糖とスパイスと爆発的な何か(北村紗衣)
男も女もみんなフェミニストでなきゃ(チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ)
カフェから時代は創られる(飯田美樹)
それでも、日本人は「戦争」を選んだ(加藤陽子)
フランツ・ファノン『黒い皮膚・白い仮面』(100分de名著)
失われたいくつかの物の目録(ユーディット・シャランスキー)
〈脳と文明〉の暗号 --言語と音楽、驚異の起源(マーク・チャンギージー)
金閣寺(三島由紀夫)
レヴィ=ストロース『野生の思考』(100分de名著)
12冊
ざっとふりかえり。
『日の名残り』は、文通している祖母が好きらしいという理由で買って、積んであった一冊。イシグロの作品は『私を離さないで』しか読んでなかったが、設定もテーマもガラッと違っていたのが面白かった。でもなんで祖母がこの本をそこまで好きなのか、実はまだピンときていない。いくつかネット上の書評を読んで、彼の作品には「信頼できない語り手」による語りのスタイルがあるという話にたどり着く。語り手のいる小説で語り手を信じないという読み方自体が新鮮でおもしろい。たしかに、『私を離さないで』が一人称の回想録という形をとりながら、終盤で想像もしない展開になるのは、語り手が読み手に隠している真実があるからなのか、と納得した。祖母にも感想を聞こうと思う。
『日の名残り』はイシグロのノーベル文学賞受賞を記念した特装版で、村上春樹が解説を書いている。高校時代に村上春樹のいくつかの小説を読んだが、あまりしっくりこなくてその後は追いかけられていなかった。久しぶりに手に取った『翻訳夜話』は、実家の本棚で発見した。読み終わって、「あれ?村上作品いけるかも」となっている。まあこれは小説ではなくて対談がベースなので、小説は小説でもちろんちがうと思うけれど…。
彼の小説にとっつきにくさを感じていた理由。『翻訳夜話』で村上が言っているが、自分の文体を作り出す過程で、日本語の小説ではなく海外の小説の翻訳をベースにしていたようだ。私のなんとなくの心理的ハードルは、作品の「翻訳文学っぽさ」が一因なのではとも思う。
とはいえ、言葉の使い方に迷ったら読みたい一冊だった。翻訳家としての技術を知るためというよりは、ものすごく微妙な言語や思考のニュアンスをどうにか、文章に落としていくプロセスを目撃することができるからだ、と思う。
今回いちばん印象に残った本は、韓国の気鋭作家パク・ミンギュの『亡き王女のためのパヴァーヌ』。ラヴェルが書いた同名のピアノ曲がもともと好きで、書店で初めて見かけてからずっとこの紫色のカバーが気になっていたのだが、いつも行く古本屋にたまたま入っていたので勢いよく購入。いつもは本屋で買った本をしばらく寝かせておくが、買ったその日に読み始めて3日ほどで読み切った。
アディーチェ『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』は、本屋で見つけて一気読み。TEDでのスピーチにあとから言葉を足して編集された本。『アメリカーナ』にも通ずる、アディーチェの聡明で軽やかな文章が好き。
後述する100分de名著の『野生の思考』には、「トーテミズムも現代人のおこなう動物の命名法も、同じ能力をもった人類の脳の知性の働きにほかならない」という一節がでてくる。人間が脳を使って想像する力については、マーク・チャンギージー『〈脳と文明〉の暗号 --言語と音楽、驚異の起源』でも触れられている。
もともとこの本は、「言語と音楽」という副題の2要素が気になったのと、自分がサンバの演奏をしていたときにサンバの2拍子の取り方は人間の歩行をベースにしているのではと感じたことから、なんらかそれに関する文献が読みたくて買った本だった。サンバの話は結局でてこなかったが、膨大な音楽や感覚実験のデータをもとに導いた結論は説得力があった。類人猿の頃から大きく脳や神経が変化したわけでもないのに、言葉や音楽が現状ヒトの専売特許となっているのはなぜか?言葉や音楽などの文化は、「既存の人間の脳がもつ性質や機能を転用して発生した」という考え方である。しいていえば、根拠となる音楽が西洋のクラシックに寄ってしまっているのが気になるが、データの蓄積量の差によるものでしかたがないかとも思う。
100分de名著:フランツ・ファノンとレヴィ=ストロース
あいかわらず「100分de名著」を細々と読んでいる。今月は、フランツ・ファノン『黒い皮膚・白い仮面』(21年2月号)と、古本屋で見つけたレヴィ=ストロース『野生の思考』(16年12月号)。5年前のテキストって、けっこうめずらしい気がする。
ファノンのことは初めて知った。カリブ海のマルティニークに生まれ、36歳で白血病によって亡くなっている。『黒い皮膚・白い仮面』は作家が20代なかばで書いた本で、フランス植民地で生まれ育った黒人・有色人種の若者が、特権階級である白人の文化や政治制度に染められ、それらを内面化することへの批判が述べられている。特に印象的だったのは、フランスやフランス語圏の北アフリカの国において、ファノン自らは内面化された「フランス的な出自」に無意識に依拠しながら、現地ではセネガルや他のアフリカ出身の兵士と一緒くたに「黒人」とみなされることの衝撃を描いた部分(の解説)だった。無意識に白人的存在を希求し、自らを肌の色から遊離させようとしていたことに気づいた彼の、雄叫びにも似た文章が心に残る。
二グロは存在しない。白人も同様に存在しない。
レヴィ=ストロースの著作はよく考えると『悲しき熱帯』しか読んでいない気がするのだが、「●●人類学」(こういうネーミングは最近あまりにも普及しすぎて実は好きではない)に対する興味をもったきっかけとして、レヴィ=ストロースはずっと心の神棚にいる人。彼が広くその名をしらしめた「構造主義」については、「構造」というあまりに一般的な単語に代表されていてよくわからなかった概念が、この「100分de名著」でかなり理解できた気がする。「未開部族」の、婚姻制度などの複雑な組織や宗教の体系に、その考え方を応用する手腕もすごいと思った。解説者である中沢新一の著作はまだ読んだことがないので、これを機会に読んでみたい。
たまたまだけど、ユダヤ系フランス人だったレヴィ=ストロースが、ドイツの迫害を逃れて間一髪乗り込んだのが、ファノンの生まれたマルティニーク行きの船だったことが書いてあり、こんなところでつながるものもあるんだなあと思った。
初めてのMISHIMA
ようやく本腰を入れて小説を読み始め、古典も現代文学もとりあえず読んでみようというのが現状。三島由紀夫『金閣寺』は積読の一冊で、三島作品はおそらく初読。5月の「100分de名著」が『金閣寺』ということで、あわてて手をつけた。
おおまかなあらすじは知っていたが、予想に反して表現がものすごく繊細で情感豊かだったのに心底おどろいた。
…私のすべての面伏せな感情、すべての邪まな心は、彼の言葉で以て陶冶されて、一種新鮮なものになった。そのためか、われわれが砂利を踏んで、赤煉瓦の正門を出てきたとき、正面に見える比叡の山は、春日に潤んで、今日はじめて見る山のように現れた。
(中略)その裾のひろがりは限りなく、あたかも一つの主題の余韻が、いつまでも鳴りひびいているようであった。低い屋根の連なりの彼方に、叡山の山襞の翳りは、その山襞の部分だけ、山腹の春めいた色の濃淡が、暗い引きしまった藍に埋もれているので、そこだけが際立って近く鮮明に見えていた。(P132)
初読ではとにかく立ち止まらずに、全体の流れを追う読み方をしてみたけど、いつかじっくり読み返したい。
三島の金閣寺ときいて思い出すのは、2月まで東京都現代美術館で開催されていた石岡瑛子の回顧展。日本では上映されていない、石岡が美術監督を務めた「MISHIMA」という映画が会場で再生されていた。三島由紀夫によく似た男優の顔と、金閣寺がぱかーんと縦にまっぷたつになって三島を内に取り込んでいく心象風景が印象的だった。会場にはそのシーンで使われたと思われる金閣寺のセットも置いてあった。(蛇足だがこの展示会で、たまたま湯山玲子さんを見かけた)
映像をすべてじっくり見たわけではないので確かではないけれど、テキストが映像を超えることの難しさを今感じている。たとえば先に引用した部分が映像化されたとして(まだらに光の当たっている比叡山、みたいな凡庸な表現しか思い浮かばないが)、はたしてテキストが与えるほどの感動を受け取れるだろうかというと、全然自信がない。
コンテンツを読む技術
コンテンツの読みかた(見かた)に対する興味はずっとあったけど、批評に関する本はあまり読んだことがなかった。フェミニズムの視点から文学を批評する北村紗衣の『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』は、文藝春秋の記事と冒頭の以下の文章にひかれて買った。
楽しむというのは、ただ見て「面白かったー」と言うことではありません。もちろん、最初はそこから始まります。何かを見て面白いとか、美しいと思うのはとてもステキなことで、それだけで価値がある体験です。問題は、それだけでは満足できなくなった時です。
ただ「面白かったー」がなんとなく物足りなくなってきて、もう一歩、深く楽しんだり、調べたり、理解したいな……と思う時に必要なのが「批評」です。(中略)私は不真面目な批評家なので、批評を読んだ人が、読む前よりも対象とする作品や作者をもっと興味深いと思ってくれればそれでいいし、それが一番大事な批評の仕事だと思っています。楽しければ、何でもありです。(まえがきより)
この部分に心をつかまれたのは、この一年さまざまな本やnote、映画などのコンテンツを読んだりみたりして「これいい!」と思ったときに、なぜ自分にとって「いい」のか、満足に説明できたことがなかったからだといえる。しかも「いい」と思うコンテンツそのものはたいてい、「偏愛」や「こだわり」を執拗なまでに言語化していることが少なくなく、「見抜いて語る力」というものが自分には欠けていると思わされることがとても多かった。
著者による批評のポイントを要約すると「まず精読、次に正確な描写。全体をつらぬくひとつの切り口を見つけるとぐっとおもしろくなる」となるだろうか。この本を読んだだけで批評をわかったように語るのは大変おこがましいけれど、これからさまざまなコンテンツを読んでいく上で、すごく頼りになる一冊であることは確かだと思う。
上記の「ひとつの切り口」に関連して、『翻訳夜話』で村上春樹が「カキフライ理論」という面白い理論を挙げている。視点の置き方が似ていると思ったので引用。
原稿用紙三枚で自分のことなんか書けるわけないですよ。プロだって書けない。ただ、そういうとき、僕はいつも言うんだけど、「カキフライについて書きなさい」と。自分について書きなさいと言われたとき、自分について書くと煮詰っちゃうんですよ。煮詰まって、そのままフリーズしかねない。だから、そういうときはカキフライについて書くんですよ。好きなものなら何でもいいんだけどね、コロッケでもメンチカツでも何でもいいんだけど……(中略)
つまり、僕が言いたいのは、カキフライについて書くことは、自分について書くことと同じなのね。自分とカキフライの間の距離を書くことによって、自分を表現できると思う。それには、語彙はそんなに必要じゃないんですよね。いちばん必要なのは、別の視点を持ってくること。それが文章を書くには大事なことだと思うんですよね。(P235)
伝い歩きの読書
『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』のように、それ自身が一つの指針になりうる本もあれば、他の本との架け橋になる本もある。今回は『カフェから時代は創られる』がそれだった。この本では、19世紀以降のフランス・パリ市内で多くの文化人や知識人が集った「カフェという場」が焦点。サルトルやボーヴォワール、ピカソやレオナール・フジタなど、何人もの著名な人物の人生を見守ったカフェの変遷がテーマだが、各人のエピソードや思想の変化を辿っているうちにそれぞれについてもっと知りたいという気持ちがわいてくる。
すぐにサルトルを読もう!みたいにはならないと思うけど、ちょっと頭の中にひっかけておくだけで、本屋に行ったときにより精度の高いアンテナを使えるようになる気がするのだ。どんなに小さい個人経営の本屋でも、生涯かけても読みきれないほどの本が積んであるから、視界のなかに少しでも余韻のある作者や作品がいるだけで、心のハードルはかなり低くなる気がしている。一人の登場人物を足がかりにして、この本からあの本へ伝い歩きをするイメージ。
書いててふと思ったが、最近やたら書肆侃侃房の本ばかり買っている。『お砂糖とスパイスと〜』もだし、今読んでいる『ことばと』も『絶体絶命文芸批評』もそうだ(後の2冊はそもそも書き手が同じ)。出版社やレーベルにもさまざまなカラーがあって面白いなと思う。みすず書房、光文社古典新訳文庫、新潮クレスト・ブックスあたりも好き(作品もだし、なんかたたずまいがいい)。
本を買う、本を売る
ちょっと前にメルカリで本を売り買いすることの是非がTwitterで話題になっていた。たしかに、読み終わった本をメルカリに出すと、状態や希少さによっては定価購入時とそこまで変わらない金額で売れたりもするし、自分も仕事がらみで過去に買った本の何冊かはメルカリで手に入れている。
しかし個人間の売買では当然、本来著者に入るべき印税や、出版社・本屋へのリターンが減ってしまう。書き手や業界としては、頭の痛い状況だろうと思う。
個人的には、だから読書に関して、メルカリに依存しすぎることのないようにしたいなと思っている。今月読んだのは、アディーチェの本を除いてすべて本屋で買った新刊・古本だった。図書館をフル活用していた頃と比べると本の購入費用は3倍以上になっているはずだ。
そうなると必然的に本を買うか否かの判断基準は厳しくなる。もともと新刊だからという理由ではあまり買わないけれど、よほどの理由(好きな作家/すごく刺さるレビューを読んだ/出版社が公開している試し読みが面白かった 等)がないと買わないようになった。
あとは、その書き手を応援したいときに著作を買うようになった。『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』を書いたのは、日本学術会議の会員推薦を受けながら、菅首相に任命拒否された加藤陽子教授だ。
とはいえ月に5冊以上買っているとそもそも部屋のスペースが徐々に限界に近づいてくるので、何かしら持続可能な本の持ちかたを考えたい。ということで、今日初めて古本屋での買取りをお願いしてみた。持ち込みは2冊。どちらもいい本だったので、ぞんざいに処理したくはないなと思って、通い慣れた古本屋に持っていった。
表紙に小さな折れがあるくらいで状態はきれいだと思っていたが、結果は、主観的には二束三文…というかんじだった。事前に調べていたメルカリの相場価格とはこんなにちがうのか!と思った。できるかぎりお金を節約したいという場合は、買取りに出すのはメリットが薄いかもしれない。
でも今日は、この2冊でもうけを出したいわけではないし、いつもお世話になっている古本屋の売り物、資産となるのであればいいかと思いなおして、提示された金額でお願いすることにした(しかもあとで知人に話したら、けっこういい値段では?と言われた。1冊10円くらいのことも結構あるらしい)。変な言い方だけど、本を買ったときに、本を買うという行為への動機はほとんど成就している気がする。
売ること前提で本を買うということにならないようにしつつ、買取りも選択肢の一つとして生かしていきたいと思う。自分にとっては本屋も古本屋も図書館も大事な場所なので、いずれかが廃れていくような本の読み方はやめたいところ。最近は読み終わった本を買取りに出して、売り上げを寄付にまわせるしくみもあるので、そういうサービスも使っていきたい。
あったかもしれない物語:『亡き王女のためのパヴァーヌ』
『失われたいくつかの物の目録』
パク・ミンギュは短編集『カステラ』の奇抜さが印象的だったけど、今回の『亡き王女』は長編の恋愛小説で一味違う。というか、パク・ミンギュの多才さを理解していなかったことにこの一冊で気づかされた。
グラデーションはあれどそれぞれに暗い過去を生きていた3人の、出会ってからの一連の時間を、現在のある時点から振り返る形で物語は進行していく。過去は動かせないが、未来は可変(かもしれない)。どこにでもありそうなストーリーなのに、「読み終わりたくない、浸っていたい」と思いながらあっという間に読み終わってしまったのはなぜだろう。
現代文学に対して、ストーリーの新奇性が第一の面白みだと無意識に思っていたのかもしれない。『亡き王女』は、植物が伸びていくようなスピードでその偏見を取り除いてくれた一冊なのだと思う。小説が音楽だとして、メロディや曲の構成だけじゃなく最小単位である音色にも、美しさは存在するのだと思った。
もう一冊の『失われたいくつかの物の目録』。かつてあったかもしれない、歴史にifはないけれど、もしかしたらまさに今存在していたかもしれない。そういう物たちの物語を集めた短編集。
これは前評判なしで完全に衝動買いした本。黒に近い濃紺の地に、星のような無数の点。ブックカバーには「本こそが、もっとも完璧なメディアである」の一文。さらに短編の合間には、またも濃紺の厚紙に、透かし模様のような絵がちりばめられている。
ここまで装丁に凝っているのは、作者がブックデザイナーでもあるからだそう。短編のテイストはさまざまだけど、久しぶりに持っていて気分の上がる本。そういうのも大事。
文学でも科学書でも旅行記でもない、新しい本だなと思う。着想は新鮮にも感じるが、人類の遺したモノの今から歴史をふりかえる『100のモノが語る 世界の歴史』に流れる大河のような歴史観も感じる。表紙の一文を読んでふと思い出したのは、漫画版ナウシカで巨神兵オーマの歯に「東京工房」らしき文字がうっすら見えている様子だった。
時間のあるのに任せて書いたら7000字を超えてしまった。たぶん来月はこんなに読めない(し、書けない)けれど、ゆるゆるやっていきます。
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