2022年7月の読書記録
7月も8月も一瞬で過ぎる。
先月は、というか先月も、読んだ本より買った本のほうが多かった。本棚を置く場所がないので、もはや書斎がほしい。
目録(5冊)
ナチュラル・ウーマン(松浦理英子)
Haruki Murakamiを読んでいるときに我々が読んでいる者たち(辛島デイヴィッド)
ミトンとふびん(吉本ばなな)
海からの贈物(アン・モロウ・リンドバーグ)
ウォークス 歩くことの精神史(レベッカ・ソルニット)
自然体を装ったらナチュラルではなくなるのか
–––『ナチュラル・ウーマン』
先日読んだ川上未映子の「夏物語」は、子どもは欲しくないと思っていた女性が、他人との関わりを通して新しい生き方にたどりつくという、とても印象深い小説だった。
それから母になることや女性であることって一体なんなんだろうとか、自分はなにがしたいんだろうとぼんやり考えることが多くなったタイミングで、ある友人から松浦理英子の「ナチュラル・ウーマン」を勧められた。
読み終わったあと、何よりびっくりしたのはこの作品が1987年に世に出ていたという事実。
すごく簡潔にこの物語を説明すると「大学生の女の子二人の出会いと別れの話」という感じで、題材じたいがすごい特殊というわけではない。それでも、主人公の心の動きや周りの人の表情などの表現に、30年以上の歳月というものはほとんど感じられず、最近の作品と言われても違和感はなかったと思う。
非常にせまい、半径5メートルくらいの空間で物事が進んでいくような話なので、大どんでん返しみたいな出来事はないものの、読者側には大きな痕跡を残すタイプの小説だなと思う。本当にさらっと読み過ごしていた何気ない言葉が、ものすごくよく切れる刃物で切ったあとの「表面には何も残っていないのに内側では切れてる状態」みたいになっていることに、さっき読み直して改めて気づかされた。こういう小説との出会いは、自分にとってめずらしい。
その「傷の見えなさ」すらも忘れた頃にまた読み直して、まだ傷があることにびっくりしたりするんだろう。それはそれで、得がたい体験だなと思った。(見出しに全然絡めてなくてすみません)
村上春樹の周辺の本ばかり読んでしまう件
–––『Haruki Murakamiを読んでいるときに我々が読んでいる者たち』
本をつくる話とか作家の仕事論はおもしろいなと思う。村上春樹の作品はあまり読んでいないのに、柴田元幸さんとの翻訳対談とか今回みたいな本はなぜか手にとることが多い。
村上春樹のデビューに始まって、数々の作品を生み出し、世界に名を知られる作家になるまでの軌跡をたどるノンフィクション。
個人的には、それぞれの作品が作家のどんな意図によって構成されているかという、ある意味「王道」な文学論も面白かったけど、それよりも欧米の翻訳者たちとの細々とした共同作業や、翻訳者たちの私生活の描写など、こまごましたささいなエピソードも同じくらい引き込まれるものがあった。
海外デビュー当初から熱狂的なファンは(出版社の内外に)いたようだが、それでも作家本人も周りの人も昔のことはけっこう覚えていなくて、「へぇ、そんなもんなんだな」と思った。だからこそ、記憶に残っていたディティールがこうして改めて形になることは価値があるなと感じる。
表紙の羊の絵は英語版「羊をめぐる冒険」の表紙だそう。謎に満ちていると同時に暖かさがあって、いい絵だなと思った。
ずっとぶれない優しさ
–––『ミトンとふびん』
吉本ばななさんの小説は中学生のときから好きだ。「アムリタ」は先日も読んだけど、もう思い出せないくらい何度も何度も読んでいる。
別にとりたてて秀でたところもない、元気なときもだらしないときもある普通の主人公が、淡々とした日々の生活の中でふと心のうちをもらしたりするのだけど、どういうわけがその一フレーズがとてもよかったりする。
でもそれは(作家が演出家として作り上げた)一つの見せどころというよりも、積み重ねられた日常の結末として、あくまでたまたま言葉になった、くらいの出来事でしかないように見える。そういうとても自然な因果を感じるところにいつもぐっとくる。
わりと最近出版された「ミトンとふびん」は短篇集だけど、底のほうを流れている水流みたいなものをずっと感じる不思議な一冊だった。まるでアムリタのような長編を読んでいるかのごとく、「いま」の物語を読みながらそれぞれの主人公の「これまで流れてきた日常も一緒に読んでる」みたいな感覚。
それは文章を書くテクニック以前の力によるものだと思う。吉本ばななさんがこれからも物語を書いてくれるといいなと心から思った。
一つの貝がらから広がる思索の大海
–––『海からの贈物』
箱根本箱で買った小さな一冊。
もともとは、須賀敦子の「遠い朝の本たち」(たしか)を読んで、いつか読みたいなあと思っていた。箱根本箱には無数の本があるが、本棚の前を徘徊してたらたまたま背表紙の文字が目に飛び込んできて、買うしかないとなった。
作者のアン・モロウ・リンドバーグは、初めて大西洋横断に成功した飛行家、チャールズ・リンドバーグの妻。アン・モロウ自身も名家の出身で、若い頃からトップスターだった夫を支えつつ、子育てに奔走した。
このエッセイ集では、アン・モロウが家と家族から離れて離島に滞在しながら、一人で思索を深めていく様子をうかがうことができる。
どの章にも貝の名前がついているが、とくに好きだったのは「日の出貝」の章だった。
Wikipediaには、夫のリンドバーグには生涯関係の続いた愛人が公にいたことや、その環境で子どもを6人も育てあげたこと、さらには身代金目的の誘拐で子どもの一人を失ったことなどが書いてあった。
「日の出貝」の以下の文章からは、それらの事実ゆえの重みも感じられる。
とても薄い、軽い本だけど、読むたびに違った気づきが得られる一冊。節目節目のタイミングで手に取る本になるだろうなと思った。
歩くことが人間にもたらしたすべて
–––『ウォークス 歩くことの精神史』
レベッカ・ソルニットの作品は「迷うことについて」に続いて2冊目。「迷うこと」は彼女自身の記憶をベースにしたエッセイに近い文章だが、こちらはより網羅的に、研究者の執念をもって「歩くこと」を考えぬいた一冊。
私自身歩くことは好きだ。予定のない休日や旅先では、気が向くまま(あるいは何も考えないで)1万歩以上歩いていることもある。
哲学者が毎日同じ道を歩いて思考を整理した、といった話に代表されるように、多くのクリエイティブな活動に歩行行為は大きな影響を与えている。古い記録を辿りながら、先人が歩くことから見出した境地を、作者に導かれて追体験することができる、とてもエキサイティングな読書だった。
とくに信仰や宗教にかかわる活動に、歩くという行為が占めている領域はとても大きい。大学では文化人類学を少しかじっていて、卒論(と言えるようなレベルではないけれど)は聖地巡礼について書いたのだが、とくに日本の原始宗教においても、歩くことは信仰者にとって祈ることと同じくらい大事な行為の一つだったのだと思う。
中世日本では庶民もお伊勢参りなどはしていたし、修験道を実践する山伏は人のいない深い山に分け入って修行を行った。比叡山には今でも、悟りの境地に近づくために千日近い時間をかけて山々を歩く千日回峰行というものもある(2000年代でこれを達成した人は3人しかいないそうだ)。このあたりの話については、網野善彦さんの文献がとても面白かった記憶がある。
聖地巡礼じたいは大昔から全世界にあり、日本独自の文化というわけではない。有名なところではメッカ巡礼やサンチアゴ・デ・コンポステラがあるが、それらの聖地や、その終着点まで(あるいはその範囲の中で)歩くことが、なぜ未だに多くの人を惹きつけるのか、ということにとても興味をひかれる。それは宗教的実践という意味を超えてるようにも見えるし、単なる観光というわけでもない。そこに「歩くこと」の本来の価値があるような気もしてくる。
そのような宗教と歩行行為の関わりについてもかなりのページが割かれているが、もっとカジュアルな話も多い。たとえば観光の話。
ついさっきまで北海道に旅行に行っていたこともあって、この箇所は改めてそのとおりだなと感じた。
この本を読んでいると、いろいろな世界を(実在する場所も空想上の場所も含めて)旅しているような気持ちになる。時間がたっぷりあるときに、また読みたいなと思う。
本と旅をテーマに、ゆるゆるつぶやく部屋をメンバーシップでつくりました。
実用的なノウハウなどはほとんどありませんが、本を読むこと、外を旅することが好きな人とつながれたら嬉しいです。
この記事が参加している募集
最後まで読んでいただき、うれしいです。 サポートをいただいたら、本か、ちょっといい飲みもの代に充てたいとおもいます。