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『魂の光』解説年間講座 第8回レポート(前編)

今日は『魂の光』解説年間講座の第8回レポート前編をお届けします。

今回から「第三の書」に入ります。
最初の15スートラでマインドの統御とその達成方法が述べられており、残りの40スートラでは、この統御を達成したあとに起こる24の結果(意識拡大とサイキック能力の発現)について述べられているそうです。

では第三の書、はりきってまいりましょう!


サンヤマ

ラージャ・ヨーガの8つのステップである八支則については既に何度か説明しましたが、その八支則の最後の3つである下記を集合的に「サンヤマ」と呼ぶそうです。
 6.ダラーナ(集中)
 7.ディヤーナ(瞑想)
 8.サマーディ(観照)
ラージャ・ヨーガの最終目的はサマーディを達成することですが、あえて「サンヤマ」としているのは、そのプロセスが重要だということでしょう。集中→瞑想→観照が1つの連続した行為になったときサンヤマが達成されるのです。

八支則の目的はサンヤマ獲得にあるといっても過言ではなく、サンヤマの前の1~5のステップはそのための準備ということになります。

では、サンヤマのステップをひとつずつ見ていきましょう。


ダラーナ(集中)

集中は瞑想の始点であり、瞑想は集中の極点です。
ダラーナができないとその先に進むことができませんが、達成が一番難しいのがダラーナとも言われています。

チッタ(心)がひとつのもの(場所や対象や観念)に縛り付けられているとき、それは「ダラーナ」の状態にあります。

簡単そうに思えますが、通常われわれの心はあちこちにさまよっています。

例えば、目の前にあるペンに意識を集中してみましょう。
ペンをジーっと見ていると、「あれ、だいぶインクが減ってきたなあ。」と気づいてしまい、「これどこで買ったんだっけ、あ、無印良品か。じゃあ後で替え芯をネット注文しよう。」「あ、無印良品で他に買うものなかったけ、カレーのストックが切れていたかも。無印のカレー美味しいよなあ。」とあっという間にペンからカレーに意識が移ってしまっています。

でも、ダラーナの練習方法として、実際に目の前にある物をジーっと見つめるところから入るのは正しいようです。


トラータカ

トラータカという一点凝視の集中方法があるそうです。凝視といっても眼を緊張させずに、まばたきをせず、対象をできるだけ長く見つめます。
しばらくしたら眼を閉じて、集中対象を心の中に描き出してみます。難しければ眼を開いて対象を凝視し、また眼を閉じて心の中に描き出してみる。しばらく繰り返すと、外部の具体的な対象の助けなしでも、それが簡単に内に見えるようになります。

多くの人は、座って眼を閉じたら何もかもうまくいくと思っているようで、ちょっとやってみて心があちこち動き回ってしまうと、「私って瞑想に向いていないみたい」と言いがちのようですが、瞑想はギターの練習のようなもので、繰り返し粘り強く練習しないと身につかないし上達しないものなのだそうです。

私が少し試してみた瞑想アプリでは、自分の呼吸に集中したり、聞こえてくる音に集中したりする方法がありました。でもまずは目に見える対象への集中の方が簡単だし達成したかどうかわかりやすそうですね。

ヴィヴェーカナンダ(ヒンドゥー教の出家者)は、ダラーナのことを「マインドを12秒間ひとつの考えに保つこと」と翻訳しています。
他の対象や考えが意識に全く入ってこない、対象の明晰な一点集中した静かな知覚は極めて達成困難であって、これを12秒間でもできたならば、真の集中が達成されたと言えるということのようです。


ディヤーナ(瞑想)

瞑想は集中の極点とのことでしたね。集中(ダラーナ)を続けることが瞑想(ディヤーナ)です。

では、集中と瞑想の違いは何なのでしょうか?

例えば、1時間瞑想をしようと思ってタイマーを設定して始めたとする。そして1時間後にベルが鳴った時、「あれ?タイマーの設定間違ったかな?座ってからまだ5分しか経っていないのに。」と感じたら、それは瞑想だったと言ってよいようです。

真の瞑想では時間には何の意味もなく、空間も失われる。心が身体意識を超えて行くのです。


サマーディ(観照)

ダラーナからディヤーナにかけては修練が必要でしたが、サマーディに修練は必要ありません。
誰もサマーディを意識的にすることはできないのです。

瞑想の場合、瞑想の「対象」に対する「自分」がいます。心を集中するための意志がまだある状態です。
「自分」が「対象」に集中することに没入するとき、自我意識が消滅します。
「自分」と「対象」の対立、ないしは二元性が融解し、「対象」だけがある状態になった時、ディヤーナはサマーディになります。

サマーディにも何段階かあるようですが、最終的なサマーディであるニルビージャ(無種子)・サマーディに達すると、もうカルマを発生することがなくなり、生きながら解放された人となります。これがサマーディの最終段階(解脱)です。

以前にも書きましたが、秘教で語られる最重要の目的は解脱ではありません。
サマーディを達成したことによって得られた叡智を下の界層に降ろす、というステップが加わっています。

自分だけ解脱したら「はい、おしまい!」ではなく、ブッディ界の叡智を3次元世界の人間にも分け与えると言うわけです。
人類が知りえないような啓示を与えるもよし、今までになかったテクノロジーや発明を世に出すもよし、エソテリック・ヒーリングを行うもよし、です。


サンヤマの結果として、光が輝き出る。

『魂の光』では、サンヤマを達成した後に得る能力について以下のように描写しています。

1.知覚のイルミネーション。魂の光が流れ入り、物質界の人間は、以前は暗闇の中にあって彼には見えなかったものを脳意識において知覚できるようになる。
この過程は専門的には以下のような簡潔な用語で描写することができる。
a. 瞑想。
b. 魂つまりエゴ意識への偏極。
c. 観照。つまり、知ろうとするもの、調べようとするものに魂の光を向ける。
d. その結果として、突き止めた知識が「イルミネーションの流れ」に乗って、スートラートマを経由して脳に降下する。

このd.のところが「叡智を下の界層に降ろす」作業のこと、イルミネーションを受けるということです。
スートラートマとは、モナドから魂を経由して降りてくる生命の糸です。この糸を通して、ブッディ界で得た想念を肉体脳に印象づけることができ、その人は肉体意識において、魂が知るものを認識するようになります。


『魂の光』の本の題名の意味がやっとわかった気がしましたね!

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