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乳がんサバイバー 第19話 新しい抗がん剤タキソールと独立記念日の花火

 2週間後、夫が出張から帰ってきた。疲れきっているようだ。急にハワイに来て私の介護や息子の世話、日本へ帰って引っ越しの用意、帰ってきたらまた出張と忙しい日々を送っている。申し訳なく思う。

親友から(乳がん全書)という分厚い本が届く。 この本はこの日から何度も何度も読み、私のバイブルとなった。

翌日は病院で新しい抗癌剤タキソールの説明を受けた。

副作用はこちらのほうが軽いそうだ。ただ、こちらの抗がん剤も髪が抜けるそうで、もう生えてくるかもと思っていたのでがっかりした。

ウイッグがあまりにも暑いのでお店に帽子だけで出かけて、じろじろと見られてしまった。深くかぶってはいたけれど、うつむいた瞬間、後ろの頭が見えてしまう。そこには当然髪の毛がない。確かにギョッとするだろう。まつ毛や眉毛も半分くらい抜けている。

キャリーから電話がかかってきた。ここのところずっと泣いているという。年上で気丈な女性なのだが、やはり乳がんとはそんな女性からも勇気を奪ってしまう病気なのだ。

私も泣いた。いや、まだ泣いている。もう泣きつかれた。 

だけど治療が終わって泣いた分だけ笑える日が来るはずと思い乗り切ることにした。次の抗がん剤まで日にちが開いていたので、元気に過ごせた。

カリフォルニアから夫の母親も来てくれた。空港から出てくると夫の剃った頭を見てびっくりするどころか

「マイベイビー!すごく誇りに思うわ」と言う。そして私のことをぎゅっとハグをしてくれた。この人は初めて会った時、外国人で何も知らない私のことをハグして「アイラブユー」と言ってくれた人だ。

「元気そう!よかった!一緒に買い物に行けるわね!」

「またそんなこと言って! でも行く」と笑いあう。

すぐに施設にスーツケースを置きに行き、そのまま買い物や食事にでかける。私の母とも仲が良く、私たちはダブルママの意味でM&Mと呼んでいた。急に人が増え、賑やかになった。私もちょうど副作用が終わった頃だったので毎日楽しく過ごすことができた。だが、すぐに次の抗がん剤のタキソールが始まるのだった。


 5回目の抗がん剤。 最初に飲むベナドレルという薬を通常の5倍投与されて倒れる寸前のような最悪な気分になる。すぐに吐き気止めの薬を飲ませてくれた。

それ以外、この抗がん剤はACの時のような(人間やめますか?)というほどの激しい副作用が全くない。これは本当にうれしかった。主な副作用は足の痛みだそうだが、それもまだでていない。

食べ物の味も戻ってきた。 パンを食べてパンの味がするというのはなんと嬉しいことだろうか。 いままでは乾いたスポンジに薬を塗っているような味だった。後半は何を食べてもパサパサで抗がん剤味だったのだ。水も水の味がする。本物の料理の味がする。うれしい、うれしい!


* * *

私たち3人と夫ママと母の5人でワードセンターやアラモアナ、ワイキキといろいろな場所へ行った。

7月4日の独立記念日にはカーニバルに行き風船を割るゲームやコインを投げるゲームをした。カーニバルとは移動式の遊園地のようなものだ。一定期間だけ開催される。子供たちは皆楽しみにしているのだった。

そして独立記念日の大きなフィナーレは花火だ。パールハーバー基地のそばの芝生に皆で寝転がって見た。ハワイの夜は涼しくここちよい。芝生は少し湿っていて良い香りがした。

息子はゲームでゲットした大きなクマのぬいぐるみと寝転がっている。

ひゅるるるっと白い光が昇っていく。
パッと一瞬明るくなって皆の嬉しそうな顔を照らす。
大きな色とりどりの花火が頭の上から降り注いでくる。
遅れてお腹に響くどーんという音に続いてパリパリパリと音がする。
火薬の匂いが立ち込める。

隣を見ると夫と息子が嬉しそうに手を叩いている。
少し後ろに母が2人並んで座っている。
真っ暗な中、花火が上がるたびに皆の顔が色とりどりに染まっていた。

毎年7月4日に花火を見ていた。

またこうやって家族で花火を見られる日が来るなんて、と幸せで胸がいっぱいになった。だけど、あと何回見られるのだろうかと思うと涙が流れた。

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 夫ママは行きたいところを全部見て2週間ほどで帰って行った。タキソールはやはり足が痛むのだが、我慢できないことはない。 なので一緒にあちこちに行けた。

ずっと看病してくれた母もやっと一緒に出かけられるようになった。
一度だけ外出先で具合が悪くなったのだが、脱水症のような感じだった。抗がん剤中は水をたくさん飲まなければいけない。

この頃、抗がん剤を始めたキャリーはひどい吐き気で何も食べられず、水も飲めずに心臓が石のように固く痛くなったと緊急室へ運ばれた。原因は脱水で、そのまま入院となった。キャリーにとっては初めての抗がん剤だ。

「どうやってこれをやりとげたの? 私は無理かもしれないわ……」と弱気になっていた。

母も日本へ帰る日が来た。帰るときはやはり寂しかった。母2人が帰っていき、急にポンと時間ができて、静かになった。

夜、日本の妹の家に電話をしたら、ちょうど母が帰ったところだった。ただの寂しさではない言葉で言い表せないような不思議な気持ちだ。自分のいるべき場所へと帰って行った母親への切ない感情なのだろうと思う。


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